Quantcast
Channel: 古代史の道
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1223

万葉集読解・・・111(1622~1635番歌)

$
0
0

     万葉集読解・・・111(1622~1635番歌)
 頭注に「大伴田村大嬢(たむらのおほいらつめ)が妹の坂上大嬢(さかのうえのおほいらつめ)に与えた歌二首」とある。田村大嬢と坂上大嬢は大伴宿奈麿(すくなまろ)の娘。母が異なる(田村大嬢の母は不明。坂上大嬢の母は坂上郎女)異母姉妹。
1622  我が宿の秋の萩咲く夕影に今も見てしか妹が姿を
      (吾屋戸乃 秋之芽子開 夕影尓 今毛見師香 妹之光儀乎)
 「夕影に」は「萩に射し込む夕日の影」のこと。「今も見てしか」は「この今も見たい」という意味。
 「我が家の庭に萩の花が咲いている。その夕日の影にあなたの姿がこの今も見られたらなあ」という歌である。

1623  我が宿にもみつかへるで見るごとに妹を懸けつつ恋ひぬ日はなし
      (吾屋戸尓 黄變蝦手 毎見 妹乎懸管 不戀日者無)
 「もみつ」は「もみじした」という、「かへるで」は「カエデ」のこと。原文は「蝦手」でカエルの手。カエルは通常「蛙」という字を当てるが、ガマガエルのような大きな蛙を蝦とすることがある。カエデは蛙の手に似ているから蝦手の字を当てているというが、似ているかどうか私には判然としない。
 「我が家の庭のカエデ紅葉を見ると気にかかるあなたのことが恋しく思われない日はありません」という歌である。

 頭注に「坂上大娘(さかのうえのおほいらつめ)が、秋の稲穂で作った蘰(かづら)を大伴家持に贈った歌」とある。坂上大娘は坂上大嬢と表記されることが多い。
1624  我が蒔ける早稲田の穂立作りたるかづらぞ見つつ偲はせ我が背
      (吾之蒔有 早田之穂立 造有 蘰曽見乍 師弩波世吾背)
 「穂立(ほたて)」は稲穂が勢揃いしている様。「蘰(かづら)」は髪飾りのこと。
 「私が蒔いて育てた早稲田の稲穂で作ったかづらをご覧になって私のことをしのんで下さいね。あなた」という歌である。

 頭注に「大伴宿祢家持が応えて贈った歌」とある。
1625  我妹子が業と作れる秋の田の早稲穂のかづら見れど飽かぬかも
      (吾妹兒之 業跡造有 秋田 早穂乃蘰 雖見不飽可聞)
 「業(なり)と作れる」は「仕事として作った」という意味。
 「わが愛するあなたが仕事にして作ってくれた早稲田の稲穂のかづら。いくら見ても見飽きることがありません」という歌である。

 頭注に「(坂上大娘が)着物を脱いで贈ってくれたことに対し、家持が贈った歌」とある。
1626  秋風の寒きこのころ下に着む妹が形見とかつも偲はむ
      (秋風之 寒比日 下尓将服 妹之形見跡 可都毛思努播武)
 「かつも」は「とともに」という意味。
 「秋風の寒さが身にしみるこのごろ、下に着てからだをあたため、あなただと思って、かつ、あなたをしのんで」という歌である。
 左注に「以上の三首は天平十一年己卯年(739年)秋九月にやりとりした歌」とある。

 頭注に「大伴宿祢家持が季節外れの藤の花と早々と黄葉化した萩の花の二つを攀(よ)ぢて(引きちぎって)坂上大嬢に贈った歌二首」とある。家持と坂上郎女の娘大嬢は前々から交渉があるが、天平十二年(740年)頃あたりに結婚したものと見なされている。
1627  我が宿の時じき藤のめづらしく今も見てしか妹が笑まひを
      (吾屋前之 非時藤之 目頬布 今毛見<壮>鹿 妹之咲容乎)
 「時じき藤の」は、原文に「非時藤之」とあるように、「季節はずれの藤」のことである。「めづらしく」は「愛づらしく」という、「今も見てしか」は「今すぐにでも見たいものです」という意味である。
 「我が家の庭に季節はずれの藤が珍しく咲いたんですが、そのようにも愛らしいあなたの笑顔が今すぐにでも見たいものです」という歌である。

1628  我が宿の萩の下葉は秋風もいまだ吹かねばかくぞもみてる
      (吾屋前之 芽子乃下葉者 秋風毛 未吹者 如此曽毛美照)
 「もみてる」は1623番歌に「もみつかへるで」の形で出てきたばかり。「もみてる」も「もみつ」もほぼ同意。「色づいた」という意味である。
 「我が家の庭の萩の下葉がまだ秋風も吹かないというのに、ほれ、こんなに色づきました」という歌である。
 左注に「これら二首は天平十二年庚辰年(740年)夏六月に贈ったものである」とある
旧暦六月は現在の七月後半。まさに「時じき藤」である。

 頭注に「大伴宿祢家持が坂上大嬢に贈った歌と短歌」とある。
1629番 長歌 大伴宿祢家持と坂上大嬢
   ねもころに 物を思へば 言はむすべ 為むすべもなし 妹と我れと 手携さはりて 朝には 庭に出で立ち 夕には 床うち掃ひ 白栲の 袖さし交へて さ寝し夜や 常にありける あしひきの 山鳥こそば 峰向ひに 妻問ひすといへ うつせみの 人なる我れや 何すとか 一日一夜も 離り居て 嘆き恋ふらむ ここ思へば 胸こそ痛き そこ故に 心なぐやと 高円の 山にも野にも うち行きて 遊び歩けど 花のみ にほひてあれば 見るごとに まして偲はゆ いかにして 忘れむものぞ 恋といふものを
   (叩々 物乎念者 将言為便 将為々便毛奈之 妹与吾 手携而 旦者 庭尓出立 夕者 床打拂 白細乃 袖指代而 佐寐之夜也 常尓有家類 足日木能 山鳥許曽婆 峯向尓 嬬問為云 打蝉乃 人有我哉 如何為跡可 一日一夜毛 離居而 嘆戀良武 許己念者 胸許曽痛 其故尓 情奈具夜登 高圓乃 山尓毛野尓母 打行而 遊徃杼 花耳 丹穂日手有者 毎見 益而所思 奈何為而 忘物曽 戀云物呼)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「床うち掃(はら)ひ」は「床を清めて」という意味。高円山(たかまどやま)は奈良市春日山の南方の山。

 (口語訳)
  ねんごろに思いに耽っていると、何と言ったらいいのかどうしてよいのか分からないほどです。あなたと私と手を取り合って、朝方には庭に出て立ち、夕方には床を清めて、真っ白な袖をさしかわして共に寝た夜が普通だったのに。また、山鳥は谷を隔てた峰に向かって、妻問いするというのに。現実の人間たる私は(生活のために)離れて暮らさなくてはならない。一日一夜を過ごすのにどうしていいのやら。あなたを思って嘆くばかり。それが苦しさに、心を慰めようと、高円山や野に出かけて遊び歩いていますが、花だけが咲いている。その花を見るたびに、いっそう思いはつのる。どうしたら忘れることが出来よう。この恋の苦しみを

 反 歌
1630  高円の野辺のかほ花面影に見えつつ妹は忘れかねつも
      (高圓之 野邊乃容花 面影尓 所見乍妹者 忘不勝裳)
 高円山(たかまどやま)は前長歌参照。「かほ花(原文「容花」)」は朝顔、かきつばた、むくげ等諸説あってはっきりしない。「かほ花」は具体的な花の名ではなく、「どの花を見てもあなたに見える」という意味に相違ない。
 「高円の野辺に咲くどの花もみなあなたに見える。あなたを追い払おうにも四六時中ついてまわる」という歌である。

 頭注に「大伴宿祢家持が安倍女郎(あへのいらつめ)に贈った歌」とある。安倍女郎は伝未詳。
1631  今造る久迩の都に秋の夜の長きにひとり寝るが苦しさ
      (今造 久邇能京尓 秋夜乃 長尓獨 宿之苦左)
 四十五代聖武天皇は一時的に、久邇京=恭仁京(京都府木津川市、740~743年)に遷都をおこなっている。久迩の都(くにのみやこ)とはむろんそのために造営された都のこと。大伴家持はこの久邇京に付き従って勤めていた。
 「今造っている久迩の都にいると、秋の夜長にひとり寝ているのはつらい」という歌である。

 頭注に「大伴宿祢家持が勤務地の久邇京に居るとき、奈良宅に留まっている坂上大娘(さかのうへのおほいらつめ)に贈った歌」とある。彼女の母は坂上郎女(さかのうへのいらつめ)と呼ばれる代表的万葉歌人の一人。大娘は通常大嬢と呼ばれる。
1632  あしひきの山辺に居りて秋風の日に異に吹けば妹をしぞ思ふ
      (足日木乃 山邊尓居而 秋風之 日異吹者 妹乎之曽念)
 「あしひきの」はお馴染みの枕詞。「日に異(け)に」は「日ごとに増す」という意味である。
 「こうして山辺に暮らしていると、秋風が日増しに吹き、あなたのことが思われてなりません」という歌である。

 頭注に「或人が尼に贈った歌二首」とある。
1633  手もすまに植ゑし萩にやかへりては見れども飽かず心尽さむ
      (手母須麻尓 殖之芽子尓也 還者 雖見不飽 情将盡)
 「手もすまに」について私は1460番歌の際に次のように記している。
 「「手もすまに」は「岩波大系本」の注に「未詳」とある。「一所懸命」の意に解しておけば歌意がすんなり通る」と・・・。本歌も同様である。
 「かへりては」は「かえって」という意味。本歌は相聞歌のひとつ。「ある人」を男性とみれば、萩は尼の仮託ということになる。どんな風に解したらよかろう。次歌からすると「ある人」とは尼さんの後見人のような人物で、少女時代から大切に世話をしてきた人のように思われる。
 「一所懸命植えた萩。なのでかえって愛着が湧き、見ても見ても見飽きることがなく、今後も心尽くして面倒を見ようと思う」という歌である。

1634  衣手に水渋付くまで植ゑし田を引板我が延へまもれる苦し
      (衣手尓 水澁付左右 殖之田乎 引板吾波倍 真守有栗子)
 水渋(みしぶ)は泥水の跳ね汚れのこと。引板(ひきた)は鳥や獣がやってきて触れると紐が引っ張られてカラカラと音を立てるように張り巡らせた、いわゆる鳴子のこと。
 「着物の袖に泥水の跳ね汚れが付くまで苦労して稲を植え育てた田を、鳴子を張り巡らせて守らなければならないとは心苦しいことよ」という歌である。
 前歌と併せて読むと、「ある人」(後見人)の尼に対する複雑な心情が読み取れる。

 頭注に「尼が上三句を作り、下二句を大伴家持が作って一首の和歌とし、「ある人」の和歌二首に応えた歌」とある。「ある人」の和歌二首とは直前の二首。
1635  佐保川の水を堰き上げて植ゑし田を [尼作] 刈れる初飯はひとりなるべし [家持續]
      (佐保河之 水乎塞上而 殖之田乎 [尼作] 苅流早飯者 獨奈流倍思 [家持續])
 「佐保川の水を堰(せ)き上げて」とは「佐保川の水を引いて」という意味である。「刈れる初飯(はついひ)」はむろん「新米で炊いた最初のご飯」のこと。
 「佐保川の水を引いて苦労して稲を植えたのはあなたさま」(尼))「その田で刈り取った新米を食べるのは田主以外にないじゃありませんか」(家持)という歌である。
 以上が秋の相聞歌である。
           (2014年9月30日記、2018年6月26日記)
イメージ 1


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1223

Trending Articles