Quantcast
Channel: 古代史の道
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1223

万葉集読解・・・113(1652~1663番歌)

$
0
0

     万葉集読解・・・113(1652~1663番歌)
 頭注に「他田廣津娘子(をさたのひろつをとめ)の梅の歌」とある。廣津娘子は伝未詳。
1652  梅の花折りも折らずも見つれども今夜の花になほしかずけり
      (梅花 折毛不折毛 見都礼杼母 今夜能花尓 尚不如家利)
 「見つれども」は「見たことがありますが」という意味である。が、たんに経験を言っているのではない。結句に「なほしかずけり」(やはり及ばない)とある。何が及ばないかといえば、むろん、花の美しさやその趣である。冬雑歌の一首なので「今夜の花」は「まだ春にならない今夜の梅の花」という意味である。
 「折り取った梅の花も、そのまま咲き誇る梅も美しく趣がありますが、まだ春にはなっていないこの時期に早々と咲いた梅の美しさには及びません」という歌である。

 頭注に「縣犬養娘子(あがたのいぬかひのをとめ)が梅にこと寄せてその思いを発露した歌」とある。犬養娘子は伝未詳。
1653  今のごと心を常に思へらばまづ咲く花の地に落ちめやも
      (如今 心乎常尓 念有者 先咲花乃 地尓将落八方)
 「今のごと心を常に思へらば」は「今抱いている心をそのまま思い続けていれば」という意味である。「まづ咲く花」であるが、前歌と同じく、「早々と咲く梅の花」のことである。
 「今抱いている心をそのまま思い続けていれば、早々と咲いて早々と散る梅のようなことにはならないでしょう」という歌である。

 頭注に「大伴坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の雪の歌」とある。坂上郎女は家持の養女で代表的万葉歌人。
1654  松蔭の浅茅の上の白雪を消たずて置かむことはかもなき
      (松影乃 淺茅之上乃 白雪乎 不令消将置 言者可聞奈吉)
 浅茅(あさじ)は「たけの低い茅菅(ちがや)」のこと。「消たずて」は「消さずに」という意味。
 結句の「ことはかもなき」は原文に「言者可聞奈吉」とある。「言葉は~」という意味になる。そこで「岩波大系本」は結句を「ことばかも無き」と訓じ、「何かまじないの言葉はないだろうか」と口語訳している。他方、「佐々木本」は「ことはかもなき」を「事はかもなき」とし、「ことは」は「言葉で」はなく「事は」としている。「伊藤本」は「事計り、手だて」と解し、「手だてもないのが残念だ」と口語訳している。また、「中西本」は「ことは」は不明としている。
 このように判然としない場合は全万葉集歌の用例に当たってみる必要がある。こういう手続きをしないまま云々するのは私には不可解でならない。むろん大切なのは全体として歌意が通るか否かだが、先ず、万葉集歌の用例にあたってみるのが最低限の条件だろう。
 まず、「言者」だが、本歌と「吾者」の誤りとされる2533番歌を除くと全部で9例ある。この全部を挙げると次の通りである。
  (207番長歌)=「玉梓の 使の言へば~」(原文:玉梓之 使之言者)
  (420番長歌)=「世間の 悔しきことは」(原文:世開乃 悔言者)
(1983番歌)=「人言は 夏野の草の」(原文: 人言者 夏野乃草之)
(2809番歌)=「思ひしことは 君にしありけり」(原文:思之言者 君西在来 )
(2866番歌)=「人言は 夏野の草の」(原文: 人言者 夏野乃草之)
(2886番歌)=「人言は まこと言痛く」(原文: 他言者 真言痛)
 (3020番歌)=「君を言はねば 思ひぞ我がする」(原文:君乎不言者 念衣吾為流)
(3178番歌)=「雲の行くごと 言は通はむ」(原文:雲之行如 言者将通)
(4214番長歌)=「風雲に 言は通へど」(原文:風雲尓 言者雖通)

 ご覧の通り短歌も長歌も「言者」はすべて言葉の意味で使われている。たった一例2809番歌の「思ひしことは」は例外に見える。「思ひしことは」は「思いし事」でぴったりではないかというわけだ。が、この例外歌もそうとは断定できない。2809番歌は「今日なれば鼻ひ鼻ひし眉かゆみ思ひしことは君にしありけり」とある。原文(思之言者)通り「おっしゃった言葉はあなた様だったんですね」で通るからである。
 念のために「事者」を拾ってみよう。11例ある。もう例示する必要はないと思うが、398番歌の「事は定めむ」や628番歌の「ことは思はず」のように、通常は物事や事柄を指す場合に使われている。
 結局常識的な結論だが「ことは」は「言葉は」の意味にしか取れない。問題は肝心の歌意。「ことはかもなき」は「言いようもない」と解すると、ぴったりである。なので、「白雪を」(白雪乎)の「を」は助詞の「を」ではなく、感嘆の「を」なのである。すなわち、歌はここでいったん切れる。
 「松の木陰の浅茅に白雪が、消え残っている。発する言葉もないほど美しい」という歌である。

 冬相聞 (1655~1663番歌)
 頭注に「三國真人人足(みくにのまひとひとたり)の歌」とある。人足は高級官僚。
1655  高山の菅の葉しのぎ降る雪の消ぬと言ふべくも恋の繁けく
      (高山之 菅葉之努藝 零雪之 消跡可曰毛 戀乃繁鶏鳩)
 「菅(すが)の葉しのぎ」は1609番歌に「宇陀の野の秋萩しのぎ鳴く鹿も~」と出てきた「しのぎ」で、「押し伏せて」という意味。
 問題は「消(け)ぬと言ふべくも」の「消ぬ」。各書とも「雪が消える」と解している。たとえば「岩波大系本」は「(雪が)消えてしまうというほどに」としている。が、こう解すると結句の「恋の繁(しげ)けく」とつながらない。「恋の繁(しげ)けく」は消えるどころか「恋しさは激しくなる」という意味に相違ないからだ。そこで「岩波大系本」は「死しんでしまう」を補って「降る雪のように消えてしまう(死んでしまう)というほどに」と意訳している。「(降る雪のように)積もる」なら分かるが「消えてしまう」では意味不明。「伊藤本」は上三句「高山の~降る雪の」を序歌としている。が、「高山の雪は消えるどころか積もる一方」だろう。つまり、この序歌は「なかなか消えないように」という意味にしか取りようがない。
 「高山の菅の葉を押し伏せて降り積もった雪も(やがて消えると言うが)実際はなかなか消えないように、恋しさは激しくなる一方です」という歌である。

 頭注に「大伴坂上郎女の歌」とある。
1656  酒杯に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後は散りぬともよし
      (酒杯尓 梅花浮 念共 飲而後者 落去登母与之)
 「思ふどち」は820番歌や1591番歌に出てきたように「気心のしれた仲間」という意味。
 「さかづきに梅の花を浮かべて気心のしれた仲間と飲み交わした後なら花は散ってもいい」という歌である。

 頭注に「これに応えた歌」とある。
1657  官にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ
      (官尓毛 縦賜有 今夜耳 将欲酒可毛 散許須奈由米)
前歌に応えた歌。
 「官(つかさ)にも許したまへり」は「お役所もお許しになっています」という意味である。
 「お役所もお許しになっています。ですから今夜だけの飲酒とは限らない。梅花よ、次の宴まで決して散らないでおくれ」という歌である。
 左注に「官より禁酒令が出ていて京(みやこ)の里での宴会は禁じられている。が、親しい者同士が数人集まっての飲酒は許されていて、それを踏まえて詠われた歌」とある。

 頭注に「藤(とう)皇后(光明皇后)が聖武天皇に奉った御歌」とある。
1658  我が背子とふたり見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しくあらまし
      (吾背兒与 二有見麻世波 幾許香 此零雪之 懽有麻思)
 「いくばくか」は「どんなにか」という意味である。
 「我が夫(せ)の君と二人して見たらどんなにかこの降る雪のうれしいことでございましょう」という歌である。

 頭注に「他田廣津娘子(をさたのひろつをとめ)の歌」とある。廣津娘子は伝未詳。
1659  真木の上に降り置ける雪のしくしくも思ほゆるかもさ夜問へ我が背
      (真木乃於尓 零置有雪乃 敷布毛 所念可聞 佐夜問吾背)
 真木(まき)の真は立派という美称。主として杉や檜に使用された。「しくしくも」は「しきりに」という、「さ夜問へ」は「今夜いらして下さい」という意味である。
 「木々の上に降り積もる雪のように重ね重ねあなたのことが思われてなりません。今夜いらして下さい」という歌である。

 頭注に「大伴宿祢駿河麻呂(するがまろ)の歌」とある。駿河麻呂は大伴旅人の叔父である大伴御行の孫で、大伴家持のまたいとこに当たる。
1660  梅の花散らすあらしの音のみに聞きし我妹を見らくしよしも
      (梅花 令落冬風 音耳 聞之吾妹乎 見良久志吉裳)
 あらし(原文:冬風)は木枯らしのことか? 「見らくしよしも」は「お逢いできるのはうれしい」という意味である。
 「梅の花を散らしてしまうような冬の強風のように貴女のことは強く噂に聞いていましたが、実際にお逢いできるのはうれしい」という歌である。

 頭注に「紀少鹿女郎(きのをしかのいらつめ)の歌」とある。少鹿女郎は伝不詳。1648番歌の作者。
1661  久方の月夜を清み梅の花心開けて我が思へる君
      (久方乃 月夜乎清美 梅花 心開而 吾念有公)
 「久方の」はお馴染みの枕詞。「月夜(つくよ)を清み」は「~なので」の「み」。
 「澄んだ清らかな月夜なので梅の花もほころびるでしょうが、私の心も開いてすなおな気持ちであなたをお慕いしています」という歌である。

 頭注に「大伴田村大娘(たむらのおほいらつめ)が異母妹坂上大嬢(さかのうえのおほいらつめ)に与えた歌」とある。田村大嬢と坂上大嬢の父は共に大伴宿奈麿(おおとものすくなまろ)。
1662  淡雪の消ぬべきものを今までに流らへぬるは妹に逢はむとぞ
      (沫雪之 可消物乎 至今<尓> 流經者 妹尓相曽)
 「消ぬべきものを」は「消えてしまう筈のものを」という意味。ここでは「死んでしまう」ことを意味している。
 「淡雪のように消えてしまう筈の命なのにこうして生きながらえているのはあなたに逢いたい一心からです」という歌である。

 頭注に「大伴宿祢家持の歌」とある。
1663  淡雪の庭に降り敷き寒き夜を手枕まかずひとりかも寝む
      (沫雪乃 庭尓零敷 寒夜乎 手枕不纒 一香聞将宿)
 相対的に大伴家持の歌は分かりやすく、それだけ直接歌意が私たちに伝わってくる。誰にも分かる言葉で詠われた歌はそれだけ広く普遍性を持っている。本歌もそんな歌のひとつである。「手枕まかず」は「手枕まく」(共寝する)の打ち消し。「ひとりかも寝む」は「ひとり寝するのだろうか」という推量形だが「~ねばならないのか」という強い詠嘆がこめられている。
 「庭に淡雪が一面に降ったこんな寒い夜に、共寝する相手もいなく、私はたった一人で寝なければならないのだろうか」という歌である。
 以上で巻8の終了である。
           (2018年6月30日記)
イメージ 1


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1223

Trending Articles