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万葉集読解・・・125(1849~1867番歌)
1849 山の際の雪は消ずあるをみなぎらふ川の沿ひには萌えにけるかも
(山際之 雪者不消有乎 水飯合 川之副者 目生来鴨)
第二句の「雪は消ずあるを」はややもたもたした訓だが、原文に忠実にすればこうなるのであろう。「みなぎらふ」は「あふれかえる」の意。本歌は「柳を詠んだ歌」なので、柳を補って読む必要がある。「山あいの雪は消え残っているけれど、流れる川は(雪解け水で)あふれかえり、川沿いの柳は青々と芽吹いている」という歌である。
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万葉集読解・・・125(1849~1867番歌)
1849 山の際の雪は消ずあるをみなぎらふ川の沿ひには萌えにけるかも
(山際之 雪者不消有乎 水飯合 川之副者 目生来鴨)
第二句の「雪は消ずあるを」はややもたもたした訓だが、原文に忠実にすればこうなるのであろう。「みなぎらふ」は「あふれかえる」の意。本歌は「柳を詠んだ歌」なので、柳を補って読む必要がある。「山あいの雪は消え残っているけれど、流れる川は(雪解け水で)あふれかえり、川沿いの柳は青々と芽吹いている」という歌である。
1850 朝な朝な我が見る柳鴬の来居て鳴くべく森に早なれ
(朝旦 吾見柳 鴬之 来居而應鳴 森尓早奈礼)
「朝な朝(さ)な」は毎朝。結句に「森に早なれ」と詠っているので、一本の柳ではなく、ある程度まとまった本数の柳に相違ない。「毎朝、私の目に触れる柳木立よ。ウグイスがやってきて居つき鳴き立てるような森に早く大きくなれ」という歌である。
(朝旦 吾見柳 鴬之 来居而應鳴 森尓早奈礼)
「朝な朝(さ)な」は毎朝。結句に「森に早なれ」と詠っているので、一本の柳ではなく、ある程度まとまった本数の柳に相違ない。「毎朝、私の目に触れる柳木立よ。ウグイスがやってきて居つき鳴き立てるような森に早く大きくなれ」という歌である。
1851 青柳の糸の細しさ春風に乱れぬい間に見せむ子もがも
(青柳之 絲乃細紗 春風尓 不乱伊間尓 令視子裳欲得)
「糸の細(くは)しさ」は、垂れ下がった柳の細枝を形容したもの。「乱れぬい間(ま)に」の「い」は接続助詞で、「その」といった感覚。「青々として垂れ下がる柳の細枝の美しいこと。春風に乱されることのない、その時期に、一緒に見せてやれる彼女がいたらなあ」という歌である。
(青柳之 絲乃細紗 春風尓 不乱伊間尓 令視子裳欲得)
「糸の細(くは)しさ」は、垂れ下がった柳の細枝を形容したもの。「乱れぬい間(ま)に」の「い」は接続助詞で、「その」といった感覚。「青々として垂れ下がる柳の細枝の美しいこと。春風に乱されることのない、その時期に、一緒に見せてやれる彼女がいたらなあ」という歌である。
1852 ももしきの大宮人のかづらけるしだり柳は見れど飽かぬかも
(百礒城 大宮人之 蘰有 垂柳者 雖見不飽鴨)
「ももしきの」は枕詞だが、「立派な」という形容句ととってもよかろう。「かづらける」は「巻いて頭に飾る」という意味である。「立派な大宮人たちが巻き付けてカズラにするしだれ柳は見れば見るほど美しい」という歌である。
(百礒城 大宮人之 蘰有 垂柳者 雖見不飽鴨)
「ももしきの」は枕詞だが、「立派な」という形容句ととってもよかろう。「かづらける」は「巻いて頭に飾る」という意味である。「立派な大宮人たちが巻き付けてカズラにするしだれ柳は見れば見るほど美しい」という歌である。
1853 梅の花取り持ち見れば我がやどの柳の眉し思ほゆるかも
(梅花 取持見者 吾屋前之 柳乃眉師 所念可聞)
「我がやどの」は「我が家の」のことだが、文字面どおり受け取っただけでは歌にならない。「美しい」とか「風情がある」とかを補って読み取らないと歌意が逃げていってしまう。「折り取った梅の花をみると本当に美しい。我が家のあの眉のような美しい柳が思い浮かぶ」という歌である。
(梅花 取持見者 吾屋前之 柳乃眉師 所念可聞)
「我がやどの」は「我が家の」のことだが、文字面どおり受け取っただけでは歌にならない。「美しい」とか「風情がある」とかを補って読み取らないと歌意が逃げていってしまう。「折り取った梅の花をみると本当に美しい。我が家のあの眉のような美しい柳が思い浮かぶ」という歌である。
1854 鴬の木伝ふ梅のうつろへば桜の花の時かたまけぬ
(鴬之 木傳梅乃 移者 櫻花之 時片設奴)
本歌~1873番歌は花を詠んだ歌。
「うつろへば」は「移りすぎ」、「かたまけぬ」は838番歌に「梅の花散り乱ひたる岡びには鴬鳴くも春かたまけて」と詠われていたように、「やってきた」という意味である。「ウグイスが枝移りして鳴く梅の季節が去っていって、桜の季節がやってきた」という歌である。
(鴬之 木傳梅乃 移者 櫻花之 時片設奴)
本歌~1873番歌は花を詠んだ歌。
「うつろへば」は「移りすぎ」、「かたまけぬ」は838番歌に「梅の花散り乱ひたる岡びには鴬鳴くも春かたまけて」と詠われていたように、「やってきた」という意味である。「ウグイスが枝移りして鳴く梅の季節が去っていって、桜の季節がやってきた」という歌である。
1855 桜花時は過ぎねど見る人の恋ふる盛りと今し散るらむ
(櫻花 時者雖不過 見人之 戀盛常 今之将落)
歌意は平明。「桜花の季節はまだ過ぎ去ったわけではないが、花を見て惜しむ人々のために今を盛りと桜は散るのだろうか」という歌である。移りゆく季節の瞬間を桜の絶頂期に寄せてとらえた歌で、見事な詠いっぷりといってよかろう。
(櫻花 時者雖不過 見人之 戀盛常 今之将落)
歌意は平明。「桜花の季節はまだ過ぎ去ったわけではないが、花を見て惜しむ人々のために今を盛りと桜は散るのだろうか」という歌である。移りゆく季節の瞬間を桜の絶頂期に寄せてとらえた歌で、見事な詠いっぷりといってよかろう。
1856 我がかざす柳の糸を吹き乱る風にか妹が梅の散るらむ
(我刺 柳絲乎 吹乱 風尓加妹之 梅乃散覧)
本歌は最後が「妹が梅の散るらむ」となっているので、二様に取れる。一つは「我がかざす柳」と並べて「妹がかざす梅」と読む読み方。もう一つは「妹が家の梅」という読み方である。私にはどちらとも決めかねるが、ここでは前者の意に解しておきたい。「私が髪にかざしている柳の細枝は吹き抜ける風で乱れている。彼女が髪にかざしている梅花も風で散っているだろうな」という歌である。
(我刺 柳絲乎 吹乱 風尓加妹之 梅乃散覧)
本歌は最後が「妹が梅の散るらむ」となっているので、二様に取れる。一つは「我がかざす柳」と並べて「妹がかざす梅」と読む読み方。もう一つは「妹が家の梅」という読み方である。私にはどちらとも決めかねるが、ここでは前者の意に解しておきたい。「私が髪にかざしている柳の細枝は吹き抜ける風で乱れている。彼女が髪にかざしている梅花も風で散っているだろうな」という歌である。
1857 毎年に梅は咲けどもうつせみの世の人君羊蹄春なかりけり
(毎年 梅者開友 空蝉之 世人君羊蹄 春無有来)
通例は下二句を「世の人君し春なかりけり」と訓じ、あまりにも相手を馬鹿にした言い方になるので、「君し」は「我れし」の誤記と解する説も飛び出してくる。が、この「君し」「我れし」論争は私には奇異に映る。原文は「世人君羊蹄」である。「羊蹄」は人ではなく、ギシギシというタデ科の大型多年草なのである。派手な梅の花とは対照的に地味な草で、地味な花。それも春には咲かず、開花は5月頃の草である。作者自身を羊蹄に仮託した歌に相違ないのだ。「うつせみの」は枕詞。「世の人君羊蹄(たで)春なかりけり」は「なあ羊蹄君よ。君もこの世の存在なのに、(梅のような)春はないものなあ」という意味である。「梅は毎年春になると美しい花を咲かせるのに、なあ羊蹄君よ。君も同じこの世の存在なのに、(梅のような)春はないものなあ」という歌である。作者の一種の嘆き節である。
(毎年 梅者開友 空蝉之 世人君羊蹄 春無有来)
通例は下二句を「世の人君し春なかりけり」と訓じ、あまりにも相手を馬鹿にした言い方になるので、「君し」は「我れし」の誤記と解する説も飛び出してくる。が、この「君し」「我れし」論争は私には奇異に映る。原文は「世人君羊蹄」である。「羊蹄」は人ではなく、ギシギシというタデ科の大型多年草なのである。派手な梅の花とは対照的に地味な草で、地味な花。それも春には咲かず、開花は5月頃の草である。作者自身を羊蹄に仮託した歌に相違ないのだ。「うつせみの」は枕詞。「世の人君羊蹄(たで)春なかりけり」は「なあ羊蹄君よ。君もこの世の存在なのに、(梅のような)春はないものなあ」という意味である。「梅は毎年春になると美しい花を咲かせるのに、なあ羊蹄君よ。君も同じこの世の存在なのに、(梅のような)春はないものなあ」という歌である。作者の一種の嘆き節である。
1858 うつたへに鳥は食まねど縄延へて守らまく欲しき梅の花かも
(打細尓 鳥者雖不喫 縄延 守巻欲寸 梅花鴨)
「うつたへに」は「必ずしも~でない」という意味だが、意外にも実例は少なく、本歌のほかには517番歌と778番歌の2例しかない。「必ずしも鳥が食べてしまうというわけではないが、しめ縄を張って守ってやらねばと思うほど美しいな、梅の花は」という歌である。
(打細尓 鳥者雖不喫 縄延 守巻欲寸 梅花鴨)
「うつたへに」は「必ずしも~でない」という意味だが、意外にも実例は少なく、本歌のほかには517番歌と778番歌の2例しかない。「必ずしも鳥が食べてしまうというわけではないが、しめ縄を張って守ってやらねばと思うほど美しいな、梅の花は」という歌である。
1859 馬並めて高き山辺を白栲ににほはしたるは梅の花かも
(馬並而 高山部乎 白妙丹 令艶色有者 梅花鴨)
「馬並(な)めて」を枕詞とする書もあるが、そのまま「馬を並べて」としても意が通る。また、「高の山辺を」を「多賀の山辺を」と訓じ、多賀は京都府綴喜郡井手町の地名とする説もある。原文には「高山部乎」とあり、題詞も左注も何の断り書きもない、裸のこの歌。どこから「多賀の山辺を」とよみ、京都が飛び出してくるのか全く不可解。原文どおり素直に「高き山辺を」と訓じるしかないように思われる。「白栲(しろたへ)ににほはしたるは」は「真っ白に染め上げているのは」という意味である。
「馬を並べて高い山辺の道を進んでいくと、あたりは真っ白に染め上がっている。鮮やかな白梅の木々の花々のせいに相違ない」という歌である。
(馬並而 高山部乎 白妙丹 令艶色有者 梅花鴨)
「馬並(な)めて」を枕詞とする書もあるが、そのまま「馬を並べて」としても意が通る。また、「高の山辺を」を「多賀の山辺を」と訓じ、多賀は京都府綴喜郡井手町の地名とする説もある。原文には「高山部乎」とあり、題詞も左注も何の断り書きもない、裸のこの歌。どこから「多賀の山辺を」とよみ、京都が飛び出してくるのか全く不可解。原文どおり素直に「高き山辺を」と訓じるしかないように思われる。「白栲(しろたへ)ににほはしたるは」は「真っ白に染め上げているのは」という意味である。
「馬を並べて高い山辺の道を進んでいくと、あたりは真っ白に染め上がっている。鮮やかな白梅の木々の花々のせいに相違ない」という歌である。
1860 花咲きて実はならねども長き日に思ほゆるかも山吹の花
(花咲而 實者不成登裳 長氣 所念鴨 山振之花)
「長き日(け)に」はことわるまでもなく、「(咲くまでが)長い期間に」という意味である。「山吹の花は実がならないけれども、咲くまでだけでも随分長くかかる花だなあ」という歌である。
(花咲而 實者不成登裳 長氣 所念鴨 山振之花)
「長き日(け)に」はことわるまでもなく、「(咲くまでが)長い期間に」という意味である。「山吹の花は実がならないけれども、咲くまでだけでも随分長くかかる花だなあ」という歌である。
1861 能登川の水底さへに照るまでに御笠の山は咲きにけるかも
(能登河之 水底并尓 光及尓 三笠乃山者 咲来鴨)
能登川は奈良の春日山から発する川。花といえば桜。「能登川の水底まで照り映える御笠の山の桜は今真っ盛り」という歌である。
(能登河之 水底并尓 光及尓 三笠乃山者 咲来鴨)
能登川は奈良の春日山から発する川。花といえば桜。「能登川の水底まで照り映える御笠の山の桜は今真っ盛り」という歌である。
1862 雪見ればいまだ冬なりしかすがに春霞立ち梅は散りつつ
(見雪者 未冬有 然為蟹 春霞立 梅者散乍)
読解を要しない平明歌。「雪を見ているといまだ冬。けれども、春霞は野に行き渡り梅の花も散り始めている」という歌である。
(見雪者 未冬有 然為蟹 春霞立 梅者散乍)
読解を要しない平明歌。「雪を見ているといまだ冬。けれども、春霞は野に行き渡り梅の花も散り始めている」という歌である。
1863 去年咲きし久木今咲くいたづらに地にか落ちむ見る人なしに
(去年咲之 久木今開 徒 土哉将堕 見人名四二)
久木(ひさき)は何の花か不詳とされている。が、一連の歌はすべて梅ないし桜を詠んでいる。これは、花の名が省略されているとみれば「久方ぶりに咲いた木」と読める。すなわち、桜の木である。「去年咲いた桜が今年、今花開いた。見る人もないままにいたずらに散ってしまう運命なのだろうか」という歌である。換言すれば「共にこの桜を見る人がいればなあ」という歌だと私には思われる。
(去年咲之 久木今開 徒 土哉将堕 見人名四二)
久木(ひさき)は何の花か不詳とされている。が、一連の歌はすべて梅ないし桜を詠んでいる。これは、花の名が省略されているとみれば「久方ぶりに咲いた木」と読める。すなわち、桜の木である。「去年咲いた桜が今年、今花開いた。見る人もないままにいたずらに散ってしまう運命なのだろうか」という歌である。換言すれば「共にこの桜を見る人がいればなあ」という歌だと私には思われる。
1864 あしひきの山の際照らす桜花この春雨に散りゆかむかも
(足日木之 山間照 櫻花 是春雨尓 散去鴨)
「あしひきの」はお馴染みの枕詞。このままで分かる平明歌。「山際を彩っている美しい桜花もこの春雨で散ってしまうかも知れない」という歌である。
(足日木之 山間照 櫻花 是春雨尓 散去鴨)
「あしひきの」はお馴染みの枕詞。このままで分かる平明歌。「山際を彩っている美しい桜花もこの春雨で散ってしまうかも知れない」という歌である。
1865 うち靡く春さり来らし山の際の遠き木末の咲きゆく見れば
(打靡 春避来之 山際 最木末乃 咲徃見者)
本歌も花名省略で桜花を詠んだもの。「うち靡く」は「草木も靡く」の意。「草木も靡く春がやってきたようだ。遠い山際の桜の梢まで次々に花開いていくのを見ると」という歌である。
(打靡 春避来之 山際 最木末乃 咲徃見者)
本歌も花名省略で桜花を詠んだもの。「うち靡く」は「草木も靡く」の意。「草木も靡く春がやってきたようだ。遠い山際の桜の梢まで次々に花開いていくのを見ると」という歌である。
1866 雉鳴く高円の辺に桜花散りて流らふ見む人もがも
(春雉鳴 高圓邊丹 櫻花 散流歴 見人毛我<母>)
高円(たかまど)は奈良市春日山の南の山。「散りて流らふ」は「散った桜が風に流れる」の意。「雉が鳴く高円の山辺に桜が散って風に流されていく。この美しい光景を共に見る人がいたらなあ」という歌である。
(春雉鳴 高圓邊丹 櫻花 散流歴 見人毛我<母>)
高円(たかまど)は奈良市春日山の南の山。「散りて流らふ」は「散った桜が風に流れる」の意。「雉が鳴く高円の山辺に桜が散って風に流されていく。この美しい光景を共に見る人がいたらなあ」という歌である。
1867 阿保山の桜の花は今日もかも散り乱るらむ見る人なしに
(阿保山之 佐宿木花者 今日毛鴨 散乱 見人無二)
阿保山(あほやま)は所在不詳。
「阿保山の桜の花は今日も乱れ散っていくようだ。見る人もないままに」という歌である。
(2014年12月10日記)
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(阿保山之 佐宿木花者 今日毛鴨 散乱 見人無二)
阿保山(あほやま)は所在不詳。
「阿保山の桜の花は今日も乱れ散っていくようだ。見る人もないままに」という歌である。
(2014年12月10日記)