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万葉集読解・・・114(1664~1679番歌)

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     万葉集読解・・・114(1664~1679番歌)
 雜歌(1664番歌~1765番歌の102首)
 頭注に「泊瀬(はつせ)の朝倉宮を皇居とされた大泊瀬幼武(おほはつせわかたけ)天皇の御製歌」とある。泊瀬の朝倉宮は奈良県桜井市にあった。大泊瀬幼武天皇は二十一代雄略天皇。
1664  夕されば小倉の山に伏す鹿の今夜は鳴かず寐ねにけらしも
      (暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寐家良霜)
 この歌は1511番歌と重出。1511番歌は頭注に「崗本天皇の御製歌」と記されている。そして第三句の「伏す鹿の」が「鳴く鹿は」となっていた。内容等1511番歌参照のこと。
 「夕方になると小倉山に伏せっている鹿が今夜は鳴かない。眠っているのだろうか」という歌である。
 左注に「本歌は或本に岡本天皇御製とある。いずれが正しいか不明なので、ここに重ねて登載する」とある。

 頭注に「岡本天皇が紀伊の國に行幸された時の歌二首」とある。岡本天皇は皇居を岡本(奈良県明日香村)に置いた天皇で、三十四代舒明と三十七代斉明が該当する。舒明天皇説が有力視されている。
1665  妹がため我れ玉拾ふ沖辺なる玉寄せ持ち来沖つ白波
      (為妹 吾玉拾 奥邊有 玉縁持来 奥津白浪)
 本歌は1667番歌と重出。「玉寄せ持ち来」は「沖つ白波」に呼びかけたもので、「この海岸まで打ち寄せてくれ」という意味である。
 「彼女へのみやげにしようと私は玉を拾おうと思っている。どうか沖の白波よ。その玉をこの海岸まで打ち寄せてくれ」という歌である。

1666  朝霧に濡れにし衣干さずしてひとりか君が山道越ゆらむ
      (朝霧尓 沾尓之衣 不干而 一哉君之 山道将越)
 結句に「山道越ゆらむ」とあるから作者が相手を思いやっている歌と分かる。
 「朝霧に濡れた着物を乾かしもしないで、あなたはひとり山道を越えておいででしょうか」という歌である。
 左注に「右の二首は作者未詳」とある。

 頭注に「大宝元年辛丑年(701年)、冬十月、太上天皇(おほきすめらみこと)、大行天皇((さきのすめらみこと)が紀伊の國に行幸された時の歌十三首」とある。太上天皇は四十一代持統天皇。大行天皇は四十二代文武天皇。1667~1679番歌の13首。
1667  妹がため我れ玉求む沖辺なる白玉寄せ来沖つ白波
      (為妹 我玉求 於伎邊有 白玉依来 於伎都白浪)
 本歌は1665番歌と重出。「我れ玉拾ふ」が「我れ玉求む」となっているが同意。
 「彼女へのみやげにしようと私は玉を求めている。どうか沖の白波よ。その玉をこの海岸まで打ち寄せてくれ」という歌である。
 左注に「本歌はすでに登載済みであるが、語句に若干異同があり、年代も異なるので重ねて登載する」とある。

1668  白崎は幸くあり待て大船に真梶しじ貫きまたかへり見む
      (白埼者 幸在待 大船尓 真梶繁貫 又将顧)
 白崎は和歌山県日高郡由良町。「幸(さき)くあり待て」とは「波静かで美しいままでいてくれ」という意味である。1386番歌にも出てきたように、「真梶(まかじ)しじ貫き」は「多くの梶を取りつけて」という意味。
 「白崎よ、波静かで美しいままでいてくれ。大船に多くの梶を取りつけてまた帰りに眺めたいから」という歌である。

1669  南部の浦潮な満ちそね鹿島なる釣りする海人を見て帰り来む
      (三名部乃浦 塩莫満 鹿嶋在 釣為海人乎 見變来六)
 「南部(みなべ)の浦」は和歌山県日高郡みなべ町の海浜。「潮な満ちそね」は「な~そ」の禁止形。鹿島はみなべ町の島。
 「ここ南部浦に潮は満ちて来るなよ。鹿島で釣りをしている漁師を見て帰って来たいから」という歌である。

1670  朝開き漕ぎ出て我れは由良の崎釣りする海人を見て帰り来む
      (朝開 滂出而我者 湯羅前 釣為海人乎 見<反>将来)
 由良の崎は和歌山県日高郡由良町。「朝開き」は「朝の始まり」すなわち「朝一番」という意味である。
 「朝一番漕ぎ出し、由良崎で釣りをしている漁師を見て帰って来よう」という歌である。

1671  由良の崎潮干にけらし白神の磯の浦廻を敢へて漕ぐなり
      (湯羅乃前 塩乾尓祁良志 白神之 礒浦箕乎 敢而滂動)
 「白神の磯」はどこの磯のことかはっきりしないが、「由良の崎潮干(しほひ)にけらし」とあるから前歌にいう由良の崎の磯なのであろう。また、「敢へて漕ぐなり」となっているので、通常時は岩礁などのため難所とされていた磯に相違ない。
 「由良の崎は今潮が干いているようだ。なので、白神の磯のあたりを敢然と漕ぎまわってみた」という歌である。

1672  黒牛潟潮干の浦を紅の玉裳裾引き行くは誰が妻
      (黒牛方 塩干乃浦乎 紅 玉裾須蘇延 徃者誰妻)
 黒牛潟(くろうしがた)は和歌山県海南市の潟。
 「潮が干いた黒牛潟の浜を紅の美しい裳裾(もすそ)を引きずって歩いていくのは誰の妻だろう」という歌である。

1673  風莫の浜の白波いたづらにここに寄せ来る見る人なしに [一云 ここに寄せ来も]
      (風莫乃 濱之白浪 徒 於斯依久流 見人無 [一云 於斯依来藻])
 「風莫(かぜなし)の浜」は地名とも「波静かな浜」とも取れる。地名なら所在不明。
 「波静かな浜に、白くて美しい細波(さざなみ)が見る人もないまま静かに打ち寄せている」という歌である。
 異伝には「ここに寄せ来る」の部分が「ここに寄せ来も」となっている。穏やかな浜にひっそりと打ち寄せる細波の美しさを捉えた歌。秀歌といってよかろう。
 左注に「本歌は山上臣憶良の「類聚歌林」に載っていて、長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が天皇の求めに応じて作った歌」とある。長忌寸意吉麻呂は伝未詳。

1674  我が背子が使来むかと出立のこの松原を今日か過ぎなむ
      (我背兒我 使将来歟跡 出立之 此松原乎 今日香過南)
 和歌山県田辺市に出立(いでたち)という名の字があるという。その地名に引っかけて作った歌。
 「家の門から出て妻が夫からの使いが来ないかと待ったという出立の松原。きょうはそこを通過していくのだろうか」という歌である。

1675  藤白の御坂を越ゆと白栲の我が衣手は濡れにけるかも
      (藤白之 三坂乎越跡 白栲之 我衣乎者 所沾香裳)
 藤白の坂は和歌山県海南市の藤白の坂とされる。他方、本歌は同県みなべ町にある磐代(いはしろ)で謀反のかどで処刑された有間皇子の悲話を下敷きにした歌とされている。この悲話を踏まえた歌は143~146番歌にわたって詠われている。ところが、藤白の坂のある海南市と磐代のあるみなべ町は直線距離でも50キロ余も離れている。古代の山道ならその行程は100キロ近くにもなりそうである。が、この悲話は当時の人にはあまりにも有名で、藤白の坂を越えれば悲話の地という認識があったのであろう。「濡れにけるかも」は「涙で濡れてしまった」という意味である。
 「藤白の坂を越えると、私が着ている真っ白な着物の袖は涙で濡れてしまいました」という歌である。

1676  背の山に黄葉常敷く神岳の山の黄葉は今日か散るらむ
      (勢能山尓 黄葉常敷 神岳之 山黄葉者 今日散濫)
 285番歌等に詠われているように、大和と紀伊の境界付近には背の山(彼氏の山)があるとされていた。「黄葉常敷く(つねしく)」は「いつも美しい黄葉が散り敷いている」という意味である。「神岳(かみたけ)の山」は奈良県明日香村の神名火山のことだという。
 「背の山はいつも美しい黄葉が散り敷いている。あの神岳の黄葉もきょうあたり散っているだろうか」という歌である。

1677  大和には聞えゆかぬか大我野の竹葉刈り敷き廬りせりとは
      (山跡庭 聞徃歟 大我野之 竹葉苅敷 廬為有跡者)
 「大和には」とは「妻のいる大和には」という意味。「聞えゆかぬか」は「伝わっていかないだろうか」、すなわち「知ってほしい」という意味である。「大我野(おほがの)」は和歌山県橋本市内の野。廬(いほ)りは仮寝のこと。
 「大和にいる妻には、ここ大我野で竹葉を刈り取って敷き、ひとりわびしく仮寝しているのを知ってほしいものだ」という歌である。

1678  紀の国の昔弓雄の鳴り矢もち鹿取り靡けし坂の上にぞある
      (木國之 昔弓雄之 響矢用 鹿取靡 坂上尓曽安留)
 「昔弓雄(さつを)の」の意味だが、「弓雄」を漁師の名と解する向きもあるが、「昔」が付いている上に第4句に「鹿取り靡(なび)けし」とあるので、たんなる漁師と解するのは疑問。英雄ないし武勇の者と解するのが自然だろう。「鳴り矢」は音を立てて飛ぶ「カブラ矢」のこと。「靡けし」は「なびかせた」すなわち「平定した」という意味。鹿は賊、その他種々に解釈できようが、読者各位の想像力に委ねたい。
 「紀の国に昔武勇の者がいて、カブラ矢を用い鹿を取り押さえ、平定したという話が伝わっているが、ここがその坂、今その坂にさしかかった所ぞ」という歌である。

1679  紀の国にやまず通はむ妻の杜妻寄しこせに妻といひながら [一云 妻賜はにも妻といひながら]
      (城國尓 不止将徃来 妻社 妻依来西尼 妻常言長柄 [一云 嬬賜尓毛 嬬云長<良>])
 「妻の杜(もり)」は和歌山県橋本市妻に「妻の森神社」がある。そこのこととすると、神社の名にちなんで詠われた歌ということになる。「妻といひながら」は「妻の杜とおっしゃっているのですから」という意味である。
 「紀の国の妻の杜に通い続けよう。妻という名の神社なのですから妻を寄せて下さるでしょう」という歌である。異伝は「妻をお与え下さるでしょう」となっている。
 左注に「本歌はあるいは坂上忌寸人長(さかのうへのいみきひとをさ)の作かという」とある。忌寸人長は伝未詳。
 以上が、四十一代持統天皇と四十二代文武天皇が、紀伊の國に行幸された時作られた歌十三首である。
           (2014年10月14日記、2018年7月4日記)
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