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万葉集読解・・・118(1728~1741番歌)

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     万葉集読解・・・118(1728~1741番歌)
 頭注に「石川卿(いしかはのまへつきみ)の歌」とある。卿は高官だが、名が不記載。
1728  慰めて今夜は寝なむ明日よりは恋ひかも行かむこゆ別れなば
      (名草目而 今夜者寐南 従明日波 戀鴨行武 従此間別者)
 「慰めて」は何を慰めてかはっきりしない。結句の「こゆ別れなば」(ここから別れたなら)に着目し、かつ、男女の間の歌と解すれば「慰めあって」ということになる。別解も考えられるが、ここでは旅の途上で一夜を共にした女性(遊女)に関連する歌と解釈しておこう。
 「今宵は互いに慰め合って寝ようではないか。私は旅の途上にある身、ここで別れて明日からあなたを恋いつつ行かねばならないのだから」という歌である。

 頭注に「宇合(うまかひ)卿の歌三首」とある。宇合は藤原不比等の子。
1729  暁の夢に見えつつ梶島の磯越す波のしきてし思ほゆ
      (暁之 夢所見乍 梶嶋乃 石超浪乃 敷弖志所念)
 梶島はどこの島か不詳。「しきてし」は「しきりに」という意味。結句の「しきてし思ほゆ」は前歌の「慰めて」と同様、何を思うのかはっきりしない。彼女のこととも取れるし、梶島の磯越す波のこととも取れる。類似の歌に1236番歌の「夢のみに継ぎて見えつつ小竹島の磯越す波のしくしく思ほゆ」がある。「しきてし」と「しくしく」はほぼ同意。が、本歌の上二句「暁の夢に見えつつ」は彼女ないし妻に対する表現と感じられる。
 「明け方に見る夢のように、梶島の磯を越えては打ち寄せる波のように、あの子のことがしきりに思われる」という歌である。

1730  山科の石田の小野のははそ原見つつか君が山道越ゆらむ
      (山品之 石田乃小野之 母蘇原 見乍哉公之 山道越良武)
 「山科の石田の小野」は「岩波大系本」に「京都市伏見区石田町のあたり」とある。「ははそ」はブナの仲間。前歌の頭注に「宇合の歌三首」とありながら、本歌は女性の歌である。前歌に対し、女性が応えたのであろうか。
 「山科の石田の小野のははそ原を見ながら今頃あなたはその山道を越えようとなさっておいででしょうか」という歌である。

1731  山科の石田の杜に幣置かばけだし我妹に直に逢はむかも
      (山科乃 石田社尓 布麻越者 蓋吾妹尓 直相鴨)
 「幣(ぬさ)置かば」は「供え物を手向ければ」という意味である。「けだし」は「ひょっとして」という意味。「直(ただ」に」は「直接に」という意味である。
 「山科の石田に鎮座する神社に供え物を手向ければ、ひょっとして彼女に直接逢えるかも」という歌である。

 頭注に「碁師(ごし)の歌二首」とある。碁師は法師と解されている。
1732  大葉山霞たなびきさ夜更けて我が舟泊てむ泊り知らずも
      (祖母山 霞棚引 左夜深而 吾舟将泊 等万里不知母)
 1224番歌と同一の重複歌。
 「大葉山に霞がかかり、夜も更けてきたのに、私の乗るこの舟はどこに停泊するのか見当もつかない」という歌である。

1733  思ひつつ来れど来かねて三尾が崎真長の浦をまたかへり見つ
      (思乍 雖来々不勝而 水尾埼 真長乃浦乎 又顧津)
 「思ひつつ来れど来かねて」は「思いながらやってきたが立ち去りがたく」という意味である。三尾(みお)が崎は琵琶湖に注ぐ安曇川(あどがわ)の河口あたりという。
 「後ろ髪を引かれる思いで後にしてきたが、三尾が崎の真長の浦を立ち去りがたく、幾度も振り返った」という歌である。

 頭注に「小辨(せうべん)の歌」とある。小辨は伝未詳。
1734  高島の安曇の港を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ
      (高嶋之 足利湖乎 滂過而 塩津菅浦 今香将滂)
 高島は滋賀県高島市のこと。安曇(あど)の港は琵琶湖に注ぐ安曇川(あどがわ)の河口あたりの港のこと。塩津菅浦(しほつすがうら)は琵琶湖北岸の近江塩津駅の南方に鎮座する塩津神社近辺。塩津の少し西側が菅浦。
 「高島の安曇の港を出て北方に漕いでいったあの舟は今頃、塩津菅浦あたりを漕いでいるだろうか」という歌である。

 頭注に「伊保麻呂(いほまろ)の歌」とある。伊保麻呂は伝未詳。
1735  我が畳三重の川原の磯の裏にかくしもがもと鳴くかはづかも
      (吾疊 三重乃河原之 礒裏尓 如是鴨跡 鳴河蝦可物)
 「我が畳」は本歌一例のみ。枕詞(?)。「三重の川原」は三重県四日市市を流れる内部川(うつべがわ)の川原という。「かくしもがも」は「こうあってほしい」という願望だが、ここでは「恋が実ってほしい」と解しておきたい。
 「三重の川原の磯の蔭で、かくしもがも(恋が実ってほしい)と鳴いている蛙」という歌である。

 頭注に「式部の大倭(おほやまと)が芳野で作った歌」とある。式部は式部省。大倭は不詳。
1736  山高み白木綿花に落ち激つ夏身の川門見れど飽かぬかも
      (山高見 白木綿花尓 落多藝津 夏身之川門 雖見不飽香開)
 「山高み」は「~ので」の「み」は。白木綿花(しらゆふばな)は真っ白な白木綿の布。水が流れ落ちる様を形容している。「夏身(なつみ)の川門」は吉野川宮滝のさらに上流地点という。
 「山が高いのでそこからたぎち落ちる大滝(宮滝)は真っ白な白木綿のようだ。その上流夏身の川門は美しく、見ても見ても見飽きない」という歌である。

 頭注に「兵部が川原で作った歌」とある。兵部は兵部省の官僚。
1737  大滝を過ぎて夏身に近づきて清き川瀬を見るがさやけさ
      (大瀧乎 過而夏箕尓 傍為而 浄川瀬 見何明沙)
 前歌と一連の歌。
 「宮滝を通り過ぎて、夏身の川原に近づき、その清らかな川瀬を見ると実にすがすがしい」という歌である。

 頭注に「上総(かみつふさ)周淮郡(すゑのこほり)珠名娘子(たまなをとめ)を詠んだ歌と短歌」とある。上総は千葉県中部の国。周淮郡は君津市にあった。
1738番 長歌
   しなが鳥 安房に継ぎたる 梓弓 周淮の珠名は 胸別けの 広き我妹 腰細の すがる娘子の その顔の きらきらしきに 花のごと 笑みて立てれば 玉桙の 道行く人は おのが行く 道は行かずて 呼ばなくに 門に至りぬ さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻離れて 乞はなくに 鍵さへ奉る 人皆の かく惑へれば たちしなひ 寄りてぞ妹は たはれてありける
   (水長鳥 安房尓継有 梓弓 末乃珠名者 胸別之 廣吾妹 腰細之 須軽娘子之 其姿之 端正尓 如花 咲而立者 玉桙乃 道<徃>人者 己行 道者不去而 不召尓 門至奴 指並 隣之君者 <預> 己妻離而 不乞尓 鎰左倍奉 人<皆乃> 如是迷有者 容艶 縁而曽妹者 多波礼弖有家留)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「しなが鳥」、「玉桙の」は枕詞。安房は千葉県南部の国。安房の北方に上総の周淮群があった。「胸別けの」は「胸が開いた」という意味。「すがる娘子の」は「じがばちのようにすっきりした」という、「きらきらしきに」は端正という意味。「たちしなひ」は「しなやかに」という、「たはれてありける」は「しなだれかかる」という意味。

 (口語訳)
  安房の国から地続きの周淮郡(すゑのこほり)の珠名という女は胸が開いた腰細のじがばちのようなすっきりした女。顔立ちは端正で、花のように微笑んで立っている。道ゆく旅人は自分の進むべき道を行かないで、呼ばれもしないのに彼女の門前に至る。まして、隣の邸宅の主人は妻と別れ、女が乞いもしないのに家や蔵の鍵を渡そうとする。
 こんな風で男は皆彼女に惑い、彼女はしなやかに男にしなだれかかるのである。

 反 歌
1739  金門にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける
      (金門尓之 人乃来立者 夜中母 身者田菜不知 出曽相来)
 「金門(かなと)にし」は玄関の前に作られていた「金属製の門」のことであろう。「身はたな知らず」は「身の危険も顧みず」という意味である。
 「金門に男がやってきて立つと、夜中であっても、身の危険も顧みず逢った」という歌である。

 頭注に「水江の浦嶋の子を詠んだ歌と短歌」とある。水江は大阪の住吉とされている。
1740番 長歌
   春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣舟の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江の 浦島の子が 鰹釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海境を 過ぎて漕ぎ行くに 海神の 神の娘子に たまさかに い漕ぎ向ひ 相とぶらひ 言成りしかば かき結び 常世に至り 海神の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり ふたり入り居て 老いもせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世間の 愚か人の 我妹子に 告りて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も告らひ 明日のごと 我れは来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この櫛笥 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年の間に 垣もなく 家失せめやと この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉櫛笥 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若くありし 肌も皺みぬ 黒くありし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 命死にける 水江の 浦島の子が 家ところ見ゆ
   (春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得<乎>良布見者 <古>之 事曽所念 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不来而 海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝T 相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至 海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而 耆不為 死不為而 永世尓 有家留物乎 世間之 愚人<乃> 吾妹兒尓 告而語久 須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如明日 吾者来南登 言家礼婆 妹之答久 常世邊 復變来而 如今 将相跡奈良婆 此篋 開勿勤常 曽己良久尓 堅目師事乎 墨吉尓 還来而 家見跡 <宅>毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久 従家出而 三歳之間尓 <垣>毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯 <如>本 家者将有登 玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走 (口+リ)袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴 <由>奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死祁流 水江之 浦嶋子之 家地見)

  「とをらふ」は「波のまにまに揺れる」こと。「ほこり」は「夢中になる」こと。「相とぶらひ 言成りしかば」は「共に語り合って契りを結び」という意味である。「櫛笥(くしげ)」は櫛を入れる箱のこと。「そこらくに」は「こんなに」という意味。「ゆなゆなは」は「その後には」という意味である。

 (口語訳)
  春の霞んでいる日には住吉の岸に出て釣り舟が波間に揺れているのを見ると、昔のことが思われる。水江の浦島の子が鰹や鯛を釣るのに夢中になって、七日間も家に帰って来なかった。海の果てに向かって漕いで行くと、海神の娘子にたまたま行き遇った。二人は共に語り合って契りを結び、常世(とこよ)に至った。そして、海神の神殿の奥に手を携えて二人入った。
 そこでは老いることもなく、死にもしないで長い世を住み続けることが出来た。が、世の中の愚か人に過ぎない浦島の子は娘子に告げ、「しばらく家に帰って父母に事の次第を告げたい。そして明日にでもここ常世に帰ってきたい」と・・・。で、娘子はこたえ、「常世に帰ってきてこれまでのように逢いたければ、決してこの櫛笥(くしげ)を開けてはなりません」と・・・。
 こんな風に固く誓って浦島の子は住吉に帰ってきた。が、父母と一緒に住んでいた家は見あたらず、里も見あたらなかった。妙だと思案し、「家を出て三年しか経っていないのに垣根も家も消え失せている。この櫛笥(くしげ)を開ければ、元通り家が現れるに相違ないと、箱を少し開けたとたん、白雲のようなものが吹き出してきて常世(海の果て)にたなびいていった。驚いた彼は、走り出し、叫び声をあげ、袖を振り、転んで倒れ、地団駄踏んで、たちまち心消え失せた。若かった肌は皺だらけになり、黒かった髪の毛も白くなってしまった。そしてその後、息絶え、命を失ってしまった。そしてそこには水江の浦島の子の家跡が見えるという。

 反 歌
1741  常世辺に住むべきものを剣大刀汝が心から鈍やこの君
      (常世邊 可住物乎 劔刀 己行柄 於曽也是君)
 本歌は浦島太郎伝説を踏まえた歌なので、水江の浦島がどこかと詮索しても始まらない。
 「剣大刀(つるぎたち)」は枕詞。
 「不老不死の国に住み続けることができたのに・・・。自らの意志だったにせよ死ぬことになるとは何と愚かなこのお人は」という歌である。
           (2018年7月20日記)
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