万葉集読解・・・119-2(1755~1765番歌)
頭注に「霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌と短歌」とある。
1755番 長歌
鴬の 卵の中に 霍公鳥 独り生れて 己が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野辺ゆ 飛び翔り 来鳴き響もし 橘の 花を居散らし ひねもすに 鳴けど聞きよし 賄はせむ 遠くな行きそ 我が宿の 花橘に 住みわたれ鳥
(鴬之 生卵乃中尓 霍公鳥 獨所生而 己父尓 似而者不鳴 己母尓 似而者不鳴 宇能花乃 開有野邊従 飛翻 来鳴令響 橘之 花乎居令散 終日 雖喧聞吉 幣者将為 遐莫去 吾屋戸之 花橘尓 住度鳥)
頭注に「霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌と短歌」とある。
1755番 長歌
鴬の 卵の中に 霍公鳥 独り生れて 己が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野辺ゆ 飛び翔り 来鳴き響もし 橘の 花を居散らし ひねもすに 鳴けど聞きよし 賄はせむ 遠くな行きそ 我が宿の 花橘に 住みわたれ鳥
(鴬之 生卵乃中尓 霍公鳥 獨所生而 己父尓 似而者不鳴 己母尓 似而者不鳴 宇能花乃 開有野邊従 飛翻 来鳴令響 橘之 花乎居令散 終日 雖喧聞吉 幣者将為 遐莫去 吾屋戸之 花橘尓 住度鳥)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「野辺ゆ」は「~から」の「ゆ」。「ひねもすに」は「一日中」という意味。「賄(まひ)はせむ」は「贈り物はしよう」という意味。「遠くな行きそ」は「な~そ」の禁止形。
(口語訳)
ウグイスの卵の中でたった独りで生まれたホトトギス。自分の父親のようには鳴かず、自分の母親のようには鳴かない。卯の花が咲いている野から飛びたって、やって来て、あたりを響かせながら(我が家の)橘の花を散らして一日中鳴く。その素晴らしい声は聞き飽きない。ホトトギスよ、贈り物はするからさ。遠くに行かないで、我が家の庭の花橘に住みついておくれでないか。
ウグイスの卵の中でたった独りで生まれたホトトギス。自分の父親のようには鳴かず、自分の母親のようには鳴かない。卯の花が咲いている野から飛びたって、やって来て、あたりを響かせながら(我が家の)橘の花を散らして一日中鳴く。その素晴らしい声は聞き飽きない。ホトトギスよ、贈り物はするからさ。遠くに行かないで、我が家の庭の花橘に住みついておくれでないか。
反 歌
1756 かき霧らし雨の降る夜を霍公鳥鳴きて行くなりあはれその鳥
(掻霧之 雨零夜乎 霍公鳥 鳴而去成 阿怜其鳥)
「かき霧らし雨の降る夜を」は「雨にけぶる夜を」という意味。
「雨にけぶる夜、霍公鳥(ホトトギス)が鳴きながら遠ざかっていく。あわれだねえホトトギスよ」という歌である。
1756 かき霧らし雨の降る夜を霍公鳥鳴きて行くなりあはれその鳥
(掻霧之 雨零夜乎 霍公鳥 鳴而去成 阿怜其鳥)
「かき霧らし雨の降る夜を」は「雨にけぶる夜を」という意味。
「雨にけぶる夜、霍公鳥(ホトトギス)が鳴きながら遠ざかっていく。あわれだねえホトトギスよ」という歌である。
頭注に「筑波山に登っての歌と短歌」とある。筑波山は茨城県の山。
1757番 長歌
草枕 旅の憂へを 慰もる こともありやと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長き日に 思ひ積み来し 憂へはやみぬ
(草枕 客之憂乎 名草漏 事毛有<哉>跡 筑波嶺尓 登而見者 尾花落 師付之田井尓 鴈泣毛 寒来喧奴 新治乃 鳥羽能淡海毛 秋風尓 白浪立奴 筑波嶺乃 吉久乎見者 長氣尓 念積来之 憂者息沼)
1757番 長歌
草枕 旅の憂へを 慰もる こともありやと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長き日に 思ひ積み来し 憂へはやみぬ
(草枕 客之憂乎 名草漏 事毛有<哉>跡 筑波嶺尓 登而見者 尾花落 師付之田井尓 鴈泣毛 寒来喧奴 新治乃 鳥羽能淡海毛 秋風尓 白浪立奴 筑波嶺乃 吉久乎見者 長氣尓 念積来之 憂者息沼)
「師付(しつく)の田居(たゐ)」は筑波山の東の麓の地。新治は筑波山の北西にあった新治郡。「鳥羽の淡海」は茨城県下妻市大宝にあった沼。
(口語訳)
草を枕の旅の憂えを慰めることもあろうかと、筑波山に登ってみた。ススキの尾花が散る筑波山の東の麓に広がる師付の田居が見える。雁がやってきて寒々と鳴き立てる。新治郡の鳥羽の淡海も秋の風が吹いて白波を立てている。筑波山から見たこの素晴らしい光景を見て、長い旅路に積もりに積もった憂いも消え失せた。
草を枕の旅の憂えを慰めることもあろうかと、筑波山に登ってみた。ススキの尾花が散る筑波山の東の麓に広がる師付の田居が見える。雁がやってきて寒々と鳴き立てる。新治郡の鳥羽の淡海も秋の風が吹いて白波を立てている。筑波山から見たこの素晴らしい光景を見て、長い旅路に積もりに積もった憂いも消え失せた。
反 歌
1758 筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな
(筑波嶺乃 須蘇廻乃田井尓 秋田苅 妹許将遺 黄葉手折奈)
「裾廻(すそみ)の田居(たゐ)に」は「山のふもとの田で」という意味である。「妹がり」の「がり」は「暗がり」と同様「~のもと」という意味。
「筑波嶺の山のふもとの田で秋の刈り入れを行っている彼女へのみやげにしよう。この黄葉を。手折っていこう」という歌である。
1758 筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな
(筑波嶺乃 須蘇廻乃田井尓 秋田苅 妹許将遺 黄葉手折奈)
「裾廻(すそみ)の田居(たゐ)に」は「山のふもとの田で」という意味である。「妹がり」の「がり」は「暗がり」と同様「~のもと」という意味。
「筑波嶺の山のふもとの田で秋の刈り入れを行っている彼女へのみやげにしよう。この黄葉を。手折っていこう」という歌である。
頭注に「筑波嶺に登って嬥歌會(かがひ)が行われた日に作られた歌と短歌」とある。嬥歌會は東国での表現で、大和などの西国では歌垣(うたがき)という。歌垣は、若い男女が農作業などを休んで山や野に集まり、踊ったり歌を詠みあったりして楽しんだ野遊び。
1759番 長歌
鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 娘子壮士の 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 我も交らむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 禁めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事もとがむな [嬥歌(かがひ)は、東の俗語に賀我比と曰ふ]
(鷲住 筑波乃山之 裳羽服津乃 其津乃上尓 率而 未通女<壮>士之 徃集 加賀布の歌尓 他妻尓 吾毛交牟 吾妻尓 他毛言問 此山乎 牛掃神之 従来 不禁行事叙 今日耳者 目串毛勿見 事毛咎莫 [嬥歌者東俗語曰賀我比])
1759番 長歌
鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 娘子壮士の 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 我も交らむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 禁めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事もとがむな [嬥歌(かがひ)は、東の俗語に賀我比と曰ふ]
(鷲住 筑波乃山之 裳羽服津乃 其津乃上尓 率而 未通女<壮>士之 徃集 加賀布の歌尓 他妻尓 吾毛交牟 吾妻尓 他毛言問 此山乎 牛掃神之 従来 不禁行事叙 今日耳者 目串毛勿見 事毛咎莫 [嬥歌者東俗語曰賀我比])
裳羽服津(もはきつ)は筑波山の一部で、場所不明という。。「かがふかがひに」は「つどってはしゃぐかがいの日は」という意味である。「うしはく神」は「支配する神」という、「めぐしもな見そ」は「可愛い女(ひと)も見るな」という意味である。
(口語訳)
鷲が住んでいるという筑波山の裳羽服津(もはきつ)のあたりに連れだって娘子や男どもが寄り集まって詠ったり踊ったりする歌垣(うたがき)の日。人の妻に私も交わろう。私の妻に他の男も誘いかけろよ。この山を支配なさっている神が、昔からお許しになっている行事。今日ばかりは、可愛い女(ひと)を見るな、なにもかもとがめてはならない。(歌末の注に「嬥歌(かがひ)は、東の俗語に賀我比と曰ふ」とある。)
鷲が住んでいるという筑波山の裳羽服津(もはきつ)のあたりに連れだって娘子や男どもが寄り集まって詠ったり踊ったりする歌垣(うたがき)の日。人の妻に私も交わろう。私の妻に他の男も誘いかけろよ。この山を支配なさっている神が、昔からお許しになっている行事。今日ばかりは、可愛い女(ひと)を見るな、なにもかもとがめてはならない。(歌末の注に「嬥歌(かがひ)は、東の俗語に賀我比と曰ふ」とある。)
反 歌
1760 男神に雲立ち上りしぐれ降り濡れ通るとも我れ帰らめや
(男神尓 雲立登 斯具礼零 沾通友 吾将反哉)
男神(ひこがみ)は筑波山の男体山。女神は女体山。
「筑波嶺の男峰に雲が湧き上がり、しぐれが降ってきた。ずぶ濡れになろうとも、この楽しい集まりを後にして帰れるものか」という歌である。
左注に「右の件(くだり)の歌は高橋連蟲麻呂(たかはしのむらじむしまろ)の歌集に出ている」とある。
1760 男神に雲立ち上りしぐれ降り濡れ通るとも我れ帰らめや
(男神尓 雲立登 斯具礼零 沾通友 吾将反哉)
男神(ひこがみ)は筑波山の男体山。女神は女体山。
「筑波嶺の男峰に雲が湧き上がり、しぐれが降ってきた。ずぶ濡れになろうとも、この楽しい集まりを後にして帰れるものか」という歌である。
左注に「右の件(くだり)の歌は高橋連蟲麻呂(たかはしのむらじむしまろ)の歌集に出ている」とある。
頭注に「鳴く鹿を詠った歌と短歌」とある。
1761番 長歌
三諸の 神奈備山に たち向ふ 御垣の山に 秋萩の 妻をまかむと 朝月夜 明けまく惜しみ あしひきの 山彦響め 呼びたて鳴くも
(三諸之 神邊山尓 立向 三垣乃山尓 秋芽子之 妻巻六跡 朝月夜 明巻鴦視 足日木乃 山響令動 喚立鳴毛)
1761番 長歌
三諸の 神奈備山に たち向ふ 御垣の山に 秋萩の 妻をまかむと 朝月夜 明けまく惜しみ あしひきの 山彦響め 呼びたて鳴くも
(三諸之 神邊山尓 立向 三垣乃山尓 秋芽子之 妻巻六跡 朝月夜 明巻鴦視 足日木乃 山響令動 喚立鳴毛)
「三諸の」は「神が降臨する」という、「神奈備山」は「神の山」という意味。「御垣の山」は所在不明。「秋萩の」は「秋萩を寝床にして」すなわち鹿の妻のこと。「妻をまかむと」は「妻と枕をかわして」すなわち「共寝しようと」という意味である。
(口語訳)
神が降臨なさる神奈備山に向かって立つ御垣の山に秋萩を寝床にして共寝しようと、妻を誘って、明け方の月のなくなるのを惜しみ、山を轟かせ、鳴き立てている。
神が降臨なさる神奈備山に向かって立つ御垣の山に秋萩を寝床にして共寝しようと、妻を誘って、明け方の月のなくなるのを惜しみ、山を轟かせ、鳴き立てている。
反 歌
1762 明日の宵逢はざらめやもあしひきの山彦響め呼びたて鳴くも
(明日之夕 不相有八方 足日木<乃> 山彦令動 呼立哭毛)
「逢はざらめやも」は「逢わずじまいということがあろうか」という意味である。「あしひきの」はお馴染みの枕詞。
「明日の宵になっても花の妻に逢わずじまいということがあろうか。鹿よ、山彦を響かせてそんなに妻問いしなさんな」という歌である。
左注に「右の件(くだり)の歌は、あるいは柿本朝臣人麻呂の作ともいう」とある。
1762 明日の宵逢はざらめやもあしひきの山彦響め呼びたて鳴くも
(明日之夕 不相有八方 足日木<乃> 山彦令動 呼立哭毛)
「逢はざらめやも」は「逢わずじまいということがあろうか」という意味である。「あしひきの」はお馴染みの枕詞。
「明日の宵になっても花の妻に逢わずじまいということがあろうか。鹿よ、山彦を響かせてそんなに妻問いしなさんな」という歌である。
左注に「右の件(くだり)の歌は、あるいは柿本朝臣人麻呂の作ともいう」とある。
頭注に「沙弥女王(さみのおほきみ)の歌」とある。沙弥女王は伝未詳。
1763 倉橋の山を高みか夜隠りに出で来る月の片待ちかたき
(倉橋之 山乎高歟 夜牢尓 出来月之 片待難)
倉橋山は主として、1282~1284番歌の3首に集中的に詠われていて、奈良県桜井市の音羽山辺りを指しているという。「高みか」は「高いせいか」という意味。「片待ちかたき」は一方的に自分の方だけが待ちきれない」という意味である。
「倉橋山が高いせいか夜が更けてからしか顔を出さない月を、ただ待ち続けるのは辛い」という歌である。
左注に「この歌は、間人宿祢大浦(はしひとのすくねおほうら)の作としてすでに登載歌の中に見えている。が、結句だけが本歌と異なっている。どちらが本来の歌なのか決めがたく、ここに本歌も登載しておく」とある。
左注にこう指摘されている歌は、290番歌の「倉橋の山を高みか夜隠りに出で来る月の光乏しき」に相違ない。ご欄のように同歌は本歌の結句「片待ちかたき」の部分が「光乏しき」となっているだけで他は全く同じである。
1763 倉橋の山を高みか夜隠りに出で来る月の片待ちかたき
(倉橋之 山乎高歟 夜牢尓 出来月之 片待難)
倉橋山は主として、1282~1284番歌の3首に集中的に詠われていて、奈良県桜井市の音羽山辺りを指しているという。「高みか」は「高いせいか」という意味。「片待ちかたき」は一方的に自分の方だけが待ちきれない」という意味である。
「倉橋山が高いせいか夜が更けてからしか顔を出さない月を、ただ待ち続けるのは辛い」という歌である。
左注に「この歌は、間人宿祢大浦(はしひとのすくねおほうら)の作としてすでに登載歌の中に見えている。が、結句だけが本歌と異なっている。どちらが本来の歌なのか決めがたく、ここに本歌も登載しておく」とある。
左注にこう指摘されている歌は、290番歌の「倉橋の山を高みか夜隠りに出で来る月の光乏しき」に相違ない。ご欄のように同歌は本歌の結句「片待ちかたき」の部分が「光乏しき」となっているだけで他は全く同じである。
七夕歌一首并短歌
頭注に「七夕を詠った歌と短歌」とある。
1764番 長歌
久方の 天の川原に 上つ瀬に 玉橋渡し 下つ瀬に 舟浮け据ゑ 雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 裳濡らさず やまず来ませと 玉橋渡す
(久堅乃 天漢尓 上瀬尓 珠橋渡之 下湍尓 船浮居 雨零而 風不吹登毛 風吹而 雨不落等物 裳不令濕 不息来益常 <玉>橋渡須)
頭注に「七夕を詠った歌と短歌」とある。
1764番 長歌
久方の 天の川原に 上つ瀬に 玉橋渡し 下つ瀬に 舟浮け据ゑ 雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 裳濡らさず やまず来ませと 玉橋渡す
(久堅乃 天漢尓 上瀬尓 珠橋渡之 下湍尓 船浮居 雨零而 風不吹登毛 風吹而 雨不落等物 裳不令濕 不息来益常 <玉>橋渡須)
「玉橋渡し」の「玉」は美称。
(口語訳)
久方の天の川原の上流に美しい橋を渡し、下流に舟を浮かべてとどめ、雨が降って風が吹かない時も、風が吹いて雨が降らない時も、裳裾を濡らさないようにして、早くいらっしゃいと橋を渡してお待ちしています。
久方の天の川原の上流に美しい橋を渡し、下流に舟を浮かべてとどめ、雨が降って風が吹かない時も、風が吹いて雨が降らない時も、裳裾を濡らさないようにして、早くいらっしゃいと橋を渡してお待ちしています。
反 歌
1765 天の川霧立ちわたる今日今日と我が待つ君し舟出すらしも
(天漢 霧立渡 且今日且今日 吾待君之 船出為等霜)
「今日今日と」は「今日か明日かと」待ちきれない心情である。一年一度の逢う瀬。
「天の川に霧が立ちこめている。今日か明日かとお待ちしていた七夕がやってきたわ。あの方はもう舟出なさったのかしら」という歌である。
左注に「右の件(くだり)の歌は或いは中衛大将(ちゅうゑのだいしゃう)藤原北卿(ふじはらのほくきゃう)の家で作られたという」とある。藤原北卿は藤原房前(ふじはらのふさざき)のことで、大伴旅人の上司だったようだ。
(2018年7月26日記)
1765 天の川霧立ちわたる今日今日と我が待つ君し舟出すらしも
(天漢 霧立渡 且今日且今日 吾待君之 船出為等霜)
「今日今日と」は「今日か明日かと」待ちきれない心情である。一年一度の逢う瀬。
「天の川に霧が立ちこめている。今日か明日かとお待ちしていた七夕がやってきたわ。あの方はもう舟出なさったのかしら」という歌である。
左注に「右の件(くだり)の歌は或いは中衛大将(ちゅうゑのだいしゃう)藤原北卿(ふじはらのほくきゃう)の家で作られたという」とある。藤原北卿は藤原房前(ふじはらのふさざき)のことで、大伴旅人の上司だったようだ。
(2018年7月26日記)