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万葉集読解・・・120(1766~1781番歌)

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     万葉集読解・・・120(1766~1781番歌)
 雑歌は前歌で終わり、本歌から相聞歌となる。1794番歌までの29首。
 頭注に「振田向宿祢(ふるのたむきのすくね)が筑紫國に帰国する時の歌」とある。振田向宿祢は伝未詳。
1766  我妹子は釧にあらなむ左手の我が奥の手に巻きて去なましを
      (吾妹兒者 久志呂尓有奈武 左手乃 吾奥手二 纒而去麻師乎)
 釧(くしろ)は腕輪。奥の手は手首。
 「あなたが釧であったらいいのに。左手の手首に巻いて旅立とうものを」という歌である。

 頭注に「抜氣大首(ぬきのけだのおびと)が筑紫に赴任するに際し、豊前國の娘子(をとめ)紐兒(ひものこ)を娶って作った歌三首」とある。抜氣大首は伝未詳。
1767  豊国の香春は我家紐児にいつがり居れば香春は我家
      (豊國乃 加波流波吾宅 紐兒尓 伊都我里座者 革流波吾家)
 豊国(とよくに)は福岡県と大分県にまたがる一帯にあった国。香春(かはる)は現在、福岡県田川郡香春(かわら)町。「いつがり居れば」は「つながっていると」という意味。この歌やや不明瞭。我が家のことをなぜわざわざ「豊国の香春は」と言わなければならないのだろう。そして結句もまた「香春は我家」となっている。つまり、逆に香春の家は我が家ではなく、「我が家同然」という意味らしいことが見て取れる。そう解さないと歌意が通らない。
 「豊国の香春は我が家のようなものだ。いつも紐児と一緒にいるのだから香春は我が家同然だ」という歌である。

1768  石上布留の早稲田の穂には出でず心のうちに恋ふるこのころ
      (石上 振乃早田乃 穂尓波不出 心中尓 戀流比日)
 本歌の上三句は1353番歌の上三句「石上布留の早稲田を秀でずとも」にそっくりである。「石上布留(いそのかみふる)」は422番歌にも「石上布留の山なる~」と詠われている。奈良県天理市石上神宮(いそのかみじんぐう)は石上町に鎮座しているが、その北側の山地が布留(布留町)である。早稲(わせ)は通常の稲より早く実る品種。
 「早稲田の稲の穂はまだ出ていないが、思いが募ったわが恋心はおさえられない」という歌である。

1769  かくのみし恋ひしわたればたまきはる命も我れは惜しけくもなし
      (如是耳志 戀思度者 霊剋 命毛吾波 惜雲奈師)
 「かくのみし恋ひしわたれば」は「こんなにも恋し続けるのなら」という意味。「たまきはる」は枕詞。
 「こんなにも恋し続けるのならこの命も惜しいと思わない」という歌である。
 以上、抜氣大首の歌三首だが、娶ったというのに、「恋ひしわたれば」とはどういうことであろう。筑紫に単身赴任して、まもなく紐兒を現地妻にしたということだろうか。

 頭注に「大神大夫(おほみわのまへつきみ)が長門守(ながとのかみ)に赴任するに際し、三輪川に集まって宴を開いた時の歌二首」とある。大神大夫は大三輪高市麿(おほみわたけちまろ)のこととされる。長門国は山口県西部にあった国。
1770  みもろの神の帯ばせる泊瀬川水脈し絶えずは我れ忘れめや
      (三諸乃 神能於婆勢流 泊瀬河 水尾之不断者 吾忘礼米也)
 「みもろ」は「神が鎮座するところ」である。「帯(お)ばせる」は「帯となさっている」という意味。泊瀬川(初瀬川)は奈良県桜井市を流れる大和川の上流部分。
 「みもろの神が帯となさっている泊瀬川の流れが絶えない限り、ここ三輪を忘れることがありましょうか」という歌である。

1771  後れ居て我れはや恋ひむ春霞たなびく山を君が越え去なば
      (於久礼居而 吾波也将戀 春霞 多奈妣久山乎 君之越去者)
 「後れ居て」は「後に残された」という意味である。
 「後に残された私は恋しくてたまらないでしょうね。春霞がたなびく山をあなた様が越えて行ってしまわれたなら」という歌である。
 左注に「右二首は古集中に出ている」とある。古集の名は不記載で不詳。

 頭注に「大神大夫が筑紫國に赴任するに際し、阿倍大夫(あへのまへつきみ)が作った歌」とある。
1772  後れ居て我れはや恋ひむ印南野の秋萩見つつ去なむ子故に
      (於久礼居而 吾者哉将戀 稲見野乃 秋芽子見都津 去奈武子故尓)
 前二首は「大神大夫が長門守に赴任した時の歌」だったが、本歌は筑紫國に赴任する時に、阿倍大夫が作った歌」とある。同一人物が長門に赴任したり筑紫に赴任したりすることもあり得るだろうが、歌が隣接している上に、大神大夫という表記は神職の気がする。大神(みわ)神社といえば格式高い最高位の神社。大神大夫という表記からして神職の高位の人に相違ない。そこから長門や筑紫の地方長官等に赴任することも考えられる。本歌の作者、阿倍大夫は大神大夫の上司だったのだろうか。大神大夫は本歌で「子」と詠われているから、あるいは女性だったのだろうか。
 第三句までは前歌と同じ。印南野(いなみの)は明石から加古川にまたがる野。
 「後に残された私は恋しくてたまらない。印南野に咲く秋の萩を見ながら去っていった子のことを思うと」という歌である。

 頭注に「弓削皇子(ゆげのみこ)に獻った歌」とある。弓削皇子は四十代天武天皇の皇子。
1773  神なびの神寄せ板にする杉の思ひも過ぎず恋の繁きに
      (神南備 神依<板>尓 為杉乃 念母不過 戀之茂尓)
 「神なびの神寄せ板にする杉の」までは「思ひも過ぎず」を導く序歌。なので実質は下二句だけの歌。「神(かむ)なび」は「神がよりつく場所」、「神々しい」あるいは「古びた」という意味。
 「神を呼び寄せる板にする杉のように、過ぎ去らない私の恋心。その激しさに耐え難い」という歌である。

 頭注に「舎人皇子(とねりのみこ)に獻った歌二首」とある。舎人皇子は四十代天武天皇の皇子。
1774  たらちねの母の命の言にあらば年の緒長く頼め過ぎむや
      (垂乳根乃 母之命乃 言尓有者 年緒長 憑過武也)
 「たらちねの」はお馴染みの枕詞。明らかに女性の歌。命(みこと)は尊称。なので「母の命の」は「お母様の」という意味。「年の緒長く」は「紐のように長い月日」という、「頼め」は「当てにさせる」という意味である。
 「(きちんとしなさいという)お母様のお言葉ですもの。当てにさせたまま長らくやり過ごすなんてことはありませんわ」という歌である。

1775  泊瀬川夕渡り来て我妹子が家の金門に近づきにけり
      (泊瀬河 夕渡来而 我妹兒何 家門 近舂二家里)
 本歌の解読は難解な点がある。当時は女性が男性の家を訪ねることはなく、訪ねるのは男性が常道であった。とすれば本歌は男性が女性の家を訪ねたという歌意になる。ところが、本歌は舎人皇子に獻った歌である。されば女性の歌と思わなければならない。が、女性が「我妹子(わぎもこ)が」と詠う筈はない。どう解したいいのだろう。
 考えられる解は、女性が自分のことを「(あなたの)我妹子が」と表現した場合である。作者は前歌と同一人だとすればやってきたのは女性の方ということになる。。原文は「我妹兒何」となっていて「我妹兒乃」となっていない。「家の金門」は「我妹子の家」ではなく「相手の家の金門と解することが出来る。
 「泊瀬川を夕方に渡ってきて(あなたの)我妹子が家の門にやってまいりましたわ」という歌である。
 左注に「右の三首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。

 頭注に「石川大夫(いしかはのまへつきみ)が都に復帰することになって上京するに際し、播磨娘子(はりまのをとめ)が贈った歌二首」とある。石川大夫は伝未詳。播磨は兵庫県南西部にあった国。
1776  絶等寸の山の峰の上の桜花咲かむ春へは君し偲はむ
      (絶等寸笶 山之峯上乃 櫻花 将開春部者 君之将思)
 「絶等寸(たゆらき)の山」は国府宮のあった兵庫県姫路市の山という説もあるが不詳。「春へは」は「春辺は」で、「春になる頃は」という意味である。
 「絶等寸(たゆらき)の山の峰の上の桜花が咲く春になる頃はあなたのことを忍ぶでしょう」という歌である。

1777  君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小櫛も取らむとも思はず
      (君無者 奈何身将装餝 匣有 黄楊之小梳毛 将取跡毛不念)
 櫛笥(くしげ)は櫛を入れる箱、黄楊(つげ)はつげの木のこと。
 「あなたがいらっしゃらなければどうして身を装う必要がありましょう。櫛箱に入っている黄楊の小櫛も手に取る気が致しません」という歌である。

 頭注に「藤井連(ふぢゐのむらじ)が都に復帰することになって上京するに際し、娘子(をとめ)が贈った歌」とある。藤井連は未詳。
1778  明日よりは我れは恋ひむな名欲山岩踏み平し君が越え去なば
      (従明日者 吾波孤悲牟奈 名欲<山 石>踏平之 君我越去者)
 名欲山(なほりやま)は大分県竹田市の山という説もあるが、藤井連は未詳で、どこから都に向かうか不明のため不詳。
 「明日から私はあなたへの恋しさがつのることでしょう。名欲山(なほりやま)の岩を踏み平(なら)し、山を越えてあなた様が去ってお行きになってしまわれたら」という歌である。

 頭注に「藤井連が応えた歌」とある。
1779  命をしま幸くもがも名欲山岩踏み平しまたまたも来む
      (命乎志 麻勢久可願 名欲山 石踐平之 復亦毛来武)
 「命をしま幸(さき)くもがも」は「命を大事にしていてほしい」ということで、「達者でね」という意味である。
 「達者でね。そうすれば名欲山を踏み越えてまたやって来ようと思うから」という歌である。

 頭注に「鹿嶋郡(かしまこほり)の苅野橋(かるのはし)で大伴卿(おほとものまへつきみ)と別れる際の歌と短歌」とある。鹿島郡は現在茨城県鹿嶋市。苅野橋は不詳だが、鹿島神宮からそんなに遠くない海に通じる橋のひとつか?大伴卿は大伴旅人とされている。
1780番 長歌
   ことひ牛の 三宅の潟に さし向ふ 鹿島の崎に さ丹塗りの 小舟を設け 玉巻きの 小楫繁貫き 夕潮の 満ちのとどみに 御船子を 率ひたてて 呼びたてて 御船出でなば 浜も狭に 後れ並み居て こいまろび 恋ひかも居らむ 足すりし 音のみや泣かむ 海上の その津を指して 君が漕ぎ行かば
   (牡牛乃 三宅之<滷>尓 指向 鹿嶋之埼尓 狭丹塗之 小船儲 玉纒之 小梶繁貫 夕塩之 満乃登等美尓 三船子呼 阿騰母比立而 喚立而 三船出者 濱毛勢尓 後奈<美>居而 反側 戀香裳将居 足垂之 泣耳八将哭 海上之 其津乎指而 君之己藝歸者)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「ことひ牛の」は原文の「牡牛乃」からして「おひうしの」と訓じるのがよかろう。枕詞説があるが、本歌一例しかなく、枕詞(?)。「三宅の潟に」は原文に「三宅之滷尓」とあり、「屯倉の方に」とするのがよいだろう。
「満ちのとどみに」は「満ち潮がとまって」という意味。

 (口語訳)
 牡牛が運び出すのに苦労するような屯倉(官営倉庫)の方に向かう鹿島の崎に、赤い丹塗りの小舟の両側に梶を通して、夕潮の満ち潮がとまった頃を見計らって、舟人たちを呼び集め、御船が出航した。後に残った者たちは、浜も狭しと転げ回り、恋しがり、地団駄踏んで声をあげて泣く。海上の向こうの屯倉のある津を指してあなた様一行が漕いで遠ざかっていくので。

 反 歌
1781  海つ路の和ぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや
      (海津路乃 名木名六時毛 渡七六 加九多都波二 船出可為八)
 鹿島の人たちが大伴卿との別れを嘆く様子は尋常ではない。「浜にひしめきあって転げ回り泣き叫ぶ」という表現からして、大伴卿が人々に強く慕われていたことを推測させる。つまり、大伴卿なる人物は鹿島に国守として長らく赴任していたのだろう。
 さて本歌だが、「渡らなむ」は「お渡りになって下さい」という意味である。
 「海路が穏やかになってから船出なさって下さい。こんなに波だっているときに船出なさらなくとも」という歌である。
 左注に「右二首は高橋連蟲麻呂の歌集に登載されている」とある。
           (2014年11月18日記、2018年7月29日記)
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