万葉集読解・・・121(1782~1794番歌)
頭注に「妻に与えた歌」とある。
1782 雪こそば春日消ゆらめ心さへ消え失せたれや言も通はぬ
(雪己曽波 春日消良米 心佐閇 消失多列夜 言母不徃来)
「雪こそば」の「こそ」は強調の「こそ」なので意味的には「雪ば」だけを考えればよい。「雪ならば」ないし「雪でさえ」といった意味。「消ゆらめ」は「消えもしようが」という意味である。
「雪ならば春日に消えもしようが、そなたは心まで消え失せたのか何の便りも寄越さないね」という歌である。
頭注に「妻に与えた歌」とある。
1782 雪こそば春日消ゆらめ心さへ消え失せたれや言も通はぬ
(雪己曽波 春日消良米 心佐閇 消失多列夜 言母不徃来)
「雪こそば」の「こそ」は強調の「こそ」なので意味的には「雪ば」だけを考えればよい。「雪ならば」ないし「雪でさえ」といった意味。「消ゆらめ」は「消えもしようが」という意味である。
「雪ならば春日に消えもしようが、そなたは心まで消え失せたのか何の便りも寄越さないね」という歌である。
頭注に「妻が応えた歌」とある。
1783 松返りしひてあれやは三栗の中上り来ず麻呂といふ奴
(松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子)
第四句「中上不来」を「佐々木本」は「中ゆ上り来ぬ」と訓じている。問題は「上り来ぬ」。誤りとは言えないが、この「ぬ」は完了の「ぬ」と取られかねない。少なくとも紛らわしい。この「佐々木本」に右ならへしたのか各書とも「来ぬ」と訓じている。むろん歌意は「都にやってきた」ではなく「やって来ない」という意味である。原文にも「不来」とある。で、私は意味をはっきりさせるためにも原文どおり「上り来ず」と訓ずることにした。
さて、「松返りしひてあれやは」であるが、意味不明。「岩波大系本」は「しひてあれやは」を頭注の中で「感覚を喪失したわけではなかろうに」という意味に解している。「松返り」はもう一例4014番歌に「松反りしひにてあれかも~」とある。「岩波大系本」や「伊藤本」は枕詞としている。が、枕詞(?)としておきたい。
「中上(なかのぼ)り」は国守として地方に赴任した官人が、着任後、しばらくしてから都にご機嫌窺いに帰京する風習があったというからそのことを言っているに相違ない。「三栗の」は「三栗でもちゃんと中があるのに」という意味か?。
「都から離れて長くなるせいか、都をお忘れになったのかしらね。三栗でもちゃんと中があるのに中上りもしないままですものね、麻呂って人は」という歌である。
左注に「右二首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。この左注により、二首は柿本人麻呂夫妻のやりとりと解されている。が、人麻呂の歌集には様々な作者の歌が入っており、かつ、麻呂は「男は」というほどの意味に過ぎないので柿本人麻呂夫妻作と断定するのはいかがなものか。
1783 松返りしひてあれやは三栗の中上り来ず麻呂といふ奴
(松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子)
第四句「中上不来」を「佐々木本」は「中ゆ上り来ぬ」と訓じている。問題は「上り来ぬ」。誤りとは言えないが、この「ぬ」は完了の「ぬ」と取られかねない。少なくとも紛らわしい。この「佐々木本」に右ならへしたのか各書とも「来ぬ」と訓じている。むろん歌意は「都にやってきた」ではなく「やって来ない」という意味である。原文にも「不来」とある。で、私は意味をはっきりさせるためにも原文どおり「上り来ず」と訓ずることにした。
さて、「松返りしひてあれやは」であるが、意味不明。「岩波大系本」は「しひてあれやは」を頭注の中で「感覚を喪失したわけではなかろうに」という意味に解している。「松返り」はもう一例4014番歌に「松反りしひにてあれかも~」とある。「岩波大系本」や「伊藤本」は枕詞としている。が、枕詞(?)としておきたい。
「中上(なかのぼ)り」は国守として地方に赴任した官人が、着任後、しばらくしてから都にご機嫌窺いに帰京する風習があったというからそのことを言っているに相違ない。「三栗の」は「三栗でもちゃんと中があるのに」という意味か?。
「都から離れて長くなるせいか、都をお忘れになったのかしらね。三栗でもちゃんと中があるのに中上りもしないままですものね、麻呂って人は」という歌である。
左注に「右二首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。この左注により、二首は柿本人麻呂夫妻のやりとりと解されている。が、人麻呂の歌集には様々な作者の歌が入っており、かつ、麻呂は「男は」というほどの意味に過ぎないので柿本人麻呂夫妻作と断定するのはいかがなものか。
頭注に「入唐使に贈った歌」とある。
1784 海若のいづれの神を祈らばか行くさも来さも船の早けむ
(海若之 何神乎 齊祈者歟 徃方毛来方毛 船之早兼)
海若(わたつみ)は海神とも和多都美とも表記される。「行くさも来さも」は原文「徃方毛来方毛」の方が分かりやすいかもしれない。「往路も帰路も」である。「船の早けむ」は「平穏に早く船が進むだろうか」という意味である。
「海のどの神様にお祈りしたら往路も帰路も平穏に早く船が進むでしょうか」という歌である。
左注に「渡海年未詳」とある。
1784 海若のいづれの神を祈らばか行くさも来さも船の早けむ
(海若之 何神乎 齊祈者歟 徃方毛来方毛 船之早兼)
海若(わたつみ)は海神とも和多都美とも表記される。「行くさも来さも」は原文「徃方毛来方毛」の方が分かりやすいかもしれない。「往路も帰路も」である。「船の早けむ」は「平穏に早く船が進むだろうか」という意味である。
「海のどの神様にお祈りしたら往路も帰路も平穏に早く船が進むでしょうか」という歌である。
左注に「渡海年未詳」とある。
頭注に「神龜五年戊辰年(728年)秋八月の歌と短歌」とある。
1785番 長歌
人となる ことは難きを わくらばに なれる我が身は 死にも生きも 君がまにまと 思ひつつ ありし間に うつせみの 世の人なれば 大君の 命畏み 天離る 鄙治めにと 朝鳥の 朝立ちしつつ 群鳥の 群立ち行かば 留まり居て 我れは恋ひむな 見ず久ならば
(人跡成 事者難乎 和久良婆尓 成吾身者 死毛生毛 <公>之随意常 念乍 有之間尓 虚蝉乃 代人有者 大王之 御命恐美 天離 夷治尓登 朝鳥之 朝立為管 群鳥之 群立行者 留居而 吾者将戀奈 不見久有者)
1785番 長歌
人となる ことは難きを わくらばに なれる我が身は 死にも生きも 君がまにまと 思ひつつ ありし間に うつせみの 世の人なれば 大君の 命畏み 天離る 鄙治めにと 朝鳥の 朝立ちしつつ 群鳥の 群立ち行かば 留まり居て 我れは恋ひむな 見ず久ならば
(人跡成 事者難乎 和久良婆尓 成吾身者 死毛生毛 <公>之随意常 念乍 有之間尓 虚蝉乃 代人有者 大王之 御命恐美 天離 夷治尓登 朝鳥之 朝立為管 群鳥之 群立行者 留居而 吾者将戀奈 不見久有者)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「わくらばに」は「たまたま」という意味。「見ず久ならば」は「お逢い出来ない日々が重なれば」という意味である。
(口語訳)
人として生まれて来るのは難しいでしょうに、たまたま人となった私は、死ぬのも生きるのもあなたの御心のままにと思って生きて来ました。が、現実のあなたは大君の命を恐れ畏んで拝命し、遠い田舎の国を治めるために、朝鳥のように朝方出立しようと、群れ鳥のようにみんなで群れをなして出立なさいました。後に残された私はあなたを恋い焦がれることでしょう。お逢い出来ない日々が重なれば。
人として生まれて来るのは難しいでしょうに、たまたま人となった私は、死ぬのも生きるのもあなたの御心のままにと思って生きて来ました。が、現実のあなたは大君の命を恐れ畏んで拝命し、遠い田舎の国を治めるために、朝鳥のように朝方出立しようと、群れ鳥のようにみんなで群れをなして出立なさいました。後に残された私はあなたを恋い焦がれることでしょう。お逢い出来ない日々が重なれば。
反 歌
1786 み越道の雪降る山を越えむ日は留まれる我れを懸けて偲はせ
(三越道之 雪零山乎 将越日者 留有吾乎 懸而小竹葉背)
夫が任地に赴くに際し、都に残る妻の心情を詠った歌。「み越道(こしぢ)」は「山越えの道」のこと。
「雪の降る山越えの道を進んで山越えをされる日は後に残った私のことを気にかけて下さいませ」という歌である。
1786 み越道の雪降る山を越えむ日は留まれる我れを懸けて偲はせ
(三越道之 雪零山乎 将越日者 留有吾乎 懸而小竹葉背)
夫が任地に赴くに際し、都に残る妻の心情を詠った歌。「み越道(こしぢ)」は「山越えの道」のこと。
「雪の降る山越えの道を進んで山越えをされる日は後に残った私のことを気にかけて下さいませ」という歌である。
頭注に「天平元年己巳年(729年)冬十二月の歌と短歌」とある。
1787番 長歌
うつせみの 世の人なれば 大君の 命畏み 敷島の 大和の国の 石上 布留の里に 紐解かず 丸寝をすれば 我が着たる 衣はなれぬ 見るごとに 恋はまされど 色に出でば 人知りぬべみ 冬の夜の 明かしもえぬを 寐も寝ずに 我れはぞ恋ふる 妹が直香に
(虚蝉乃 世人有者 大王之 御命恐弥 礒城嶋能 日本國乃 石上 振里尓 紐不解 丸寐乎為者 吾衣有 服者奈礼奴 毎見 戀者雖益 色二山上復有山者 一可知美 冬夜之 明毛不得呼 五十母不宿二 吾歯曽戀流 妹之直香仁)
1787番 長歌
うつせみの 世の人なれば 大君の 命畏み 敷島の 大和の国の 石上 布留の里に 紐解かず 丸寝をすれば 我が着たる 衣はなれぬ 見るごとに 恋はまされど 色に出でば 人知りぬべみ 冬の夜の 明かしもえぬを 寐も寝ずに 我れはぞ恋ふる 妹が直香に
(虚蝉乃 世人有者 大王之 御命恐弥 礒城嶋能 日本國乃 石上 振里尓 紐不解 丸寐乎為者 吾衣有 服者奈礼奴 毎見 戀者雖益 色二山上復有山者 一可知美 冬夜之 明毛不得呼 五十母不宿二 吾歯曽戀流 妹之直香仁)
「敷島の」は枕詞。「石上 布留の里」は、布留山(ふるやま)は奈良県天理市に鎮座する石上神宮(いそのかみじんぐう)の東方の山。「衣はなれぬ」は「着物はよれよれになってしまった」という意味。「人知りぬべみ」は「人が知ってしまうので」という意味である。
(口語訳)
私は現世の人間なので、大君の命を恐れ畏み、大和の国の石上神宮(いそのかみじんぐう)は石上町の北の山地の布留の里で紐を解かず、丸寝をしている。わが着ている着物はよれよれになってしまった。こんな自分の姿を見るたびに妻への思いは勝るばかり。が、その思いを少しでも面に出そうものなら、人が知ってしまうので、長く寒い冬の夜を明けるのを耐えようとするが、寝るに寝られず、妻の暖かい香りを思い出して。
私は現世の人間なので、大君の命を恐れ畏み、大和の国の石上神宮(いそのかみじんぐう)は石上町の北の山地の布留の里で紐を解かず、丸寝をしている。わが着ている着物はよれよれになってしまった。こんな自分の姿を見るたびに妻への思いは勝るばかり。が、その思いを少しでも面に出そうものなら、人が知ってしまうので、長く寒い冬の夜を明けるのを耐えようとするが、寝るに寝られず、妻の暖かい香りを思い出して。
反 歌
1788 布留山ゆ直に見わたす都にぞ寝も寝ず恋ふる遠くあらなくに
(振山従 直見渡 京二曽 寐不宿戀流 遠不有尓)
布留山(ふるやま)は前歌参照。「布留山ゆ」は「~から」の「ゆ」。
「布留山から直接見渡すことができる平城京、そこにいる妻が寝るに寝られないほど恋しい。さほど遠い地ではないけれど」という歌である。
1788 布留山ゆ直に見わたす都にぞ寝も寝ず恋ふる遠くあらなくに
(振山従 直見渡 京二曽 寐不宿戀流 遠不有尓)
布留山(ふるやま)は前歌参照。「布留山ゆ」は「~から」の「ゆ」。
「布留山から直接見渡すことができる平城京、そこにいる妻が寝るに寝られないほど恋しい。さほど遠い地ではないけれど」という歌である。
1789 我妹子が結ひてし紐を解かめやも絶えば絶ゆとも直に逢ふまでに
(吾妹兒之 結手師紐乎 将解八方 絶者絶十方 直二相左右二)
妻が結んでくれた着物の紐を解くのは不吉とされた。それを踏まえた歌。「絶えば絶ゆとも」は「切れてしまうことがあっても」という意味。
「妻が結んでくれた着物の紐をどうして解くものか。たとえ切れることがあろうとも、直接妻に逢うまでは」という歌である。
左注に「右の件(くだり)の五首笠朝臣金村の歌集に登載されている」とある。
(吾妹兒之 結手師紐乎 将解八方 絶者絶十方 直二相左右二)
妻が結んでくれた着物の紐を解くのは不吉とされた。それを踏まえた歌。「絶えば絶ゆとも」は「切れてしまうことがあっても」という意味。
「妻が結んでくれた着物の紐をどうして解くものか。たとえ切れることがあろうとも、直接妻に逢うまでは」という歌である。
左注に「右の件(くだり)の五首笠朝臣金村の歌集に登載されている」とある。
頭注に「天平五年癸酉年(733年)遣唐使の舶が難波を発って海に出る時、遣唐使の母親が我が子に贈った歌と短歌」とある。この時の遣唐大使は丹比広成。
1790番 長歌
秋萩を 妻どふ鹿こそ 独り子に 子持てりといへ 鹿子じもの 我が独り子の 草枕 旅にし行けば 竹玉を 繁に貫き垂れ 斎瓮に 木綿取り垂でて 斎ひつつ 我が思ふ我子 ま幸くありこそ
(秋芽子乎 妻問鹿許曽 一子二 子持有跡五十戸 鹿兒自物 吾獨子之 草枕 客二師徃者 竹珠乎 密貫垂 齊戸尓 木綿取四手而 忌日管 吾思吾子 真好去有欲得)
「斎瓮(いわいべ)」は祭祀用の神聖な瓶。「木綿(ゆふ)」は祭祀用に用いる布で、紐のようになっている。
1790番 長歌
秋萩を 妻どふ鹿こそ 独り子に 子持てりといへ 鹿子じもの 我が独り子の 草枕 旅にし行けば 竹玉を 繁に貫き垂れ 斎瓮に 木綿取り垂でて 斎ひつつ 我が思ふ我子 ま幸くありこそ
(秋芽子乎 妻問鹿許曽 一子二 子持有跡五十戸 鹿兒自物 吾獨子之 草枕 客二師徃者 竹珠乎 密貫垂 齊戸尓 木綿取四手而 忌日管 吾思吾子 真好去有欲得)
(口語訳)
秋萩を妻と見立てて妻どう鹿、子を一匹しか持たないというが、その鹿のように私の一人子は旅に出立する。竹にいっぱい玉を通して垂らし、斎瓮(いわいべ)には木綿(ゆふ)を垂らし、お祈りをする。「どうか我が子が無事でありますように」と。
秋萩を妻と見立てて妻どう鹿、子を一匹しか持たないというが、その鹿のように私の一人子は旅に出立する。竹にいっぱい玉を通して垂らし、斎瓮(いわいべ)には木綿(ゆふ)を垂らし、お祈りをする。「どうか我が子が無事でありますように」と。
反 歌
1791 旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群
(客人之 宿将為野尓 霜降者 吾子羽L 天乃鶴群)
当時は海路であっても仮寝をするときは、島なり陸なりに上がるのが通例だった。「羽(は)ぐくめ」は「羽で覆ってね」という意味。
「旅人たる我が子が陸に上がって仮寝せんとする、その野に霜が降りたら我が子を羽で覆ってね、空翔る鶴たちよ」という歌である。
1791 旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群
(客人之 宿将為野尓 霜降者 吾子羽L 天乃鶴群)
当時は海路であっても仮寝をするときは、島なり陸なりに上がるのが通例だった。「羽(は)ぐくめ」は「羽で覆ってね」という意味。
「旅人たる我が子が陸に上がって仮寝せんとする、その野に霜が降りたら我が子を羽で覆ってね、空翔る鶴たちよ」という歌である。
頭注に「娘子(をとめ)のことを思って作った歌と短歌」とある。
1792番 長歌
白玉の 人のその名を なかなかに 言を下延へ 逢はぬ日の 数多く過ぐれば 恋ふる日の 重なりゆけば 思ひ遣る たどきを知らに 肝向ふ 心砕けて 玉たすき 懸けぬ時なく 口やまず 我が恋ふる子を 玉釧 手に取り持ちて まそ鏡 直目に見ねば 下ひ山 下行く水の 上に出でず 我が思ふ心 安きそらかも
(白玉之 人乃其名矣 中々二 辞緒<下>延 不遇日之 數多過者 戀日之 累行者 思遣 田時乎白土 肝向 心摧而 珠手次 不懸時無 口不息 吾戀兒矣 玉釧 手尓取持而 真十鏡 直目尓不視者 下桧山 下逝水乃 上丹不出 吾念情 安虚歟毛)
1792番 長歌
白玉の 人のその名を なかなかに 言を下延へ 逢はぬ日の 数多く過ぐれば 恋ふる日の 重なりゆけば 思ひ遣る たどきを知らに 肝向ふ 心砕けて 玉たすき 懸けぬ時なく 口やまず 我が恋ふる子を 玉釧 手に取り持ちて まそ鏡 直目に見ねば 下ひ山 下行く水の 上に出でず 我が思ふ心 安きそらかも
(白玉之 人乃其名矣 中々二 辞緒<下>延 不遇日之 數多過者 戀日之 累行者 思遣 田時乎白土 肝向 心摧而 珠手次 不懸時無 口不息 吾戀兒矣 玉釧 手尓取持而 真十鏡 直目尓不視者 下桧山 下逝水乃 上丹不出 吾念情 安虚歟毛)
「白玉の人のその名を」は「白玉のような彼女の名前を」という意味。「言を下延へ」は「言葉に出さず内心密かに」という意味である。「肝向ふ」は枕詞。「下ひ山」は「下の方が紅葉に染まった山」という意味。
(口語訳)
白玉のような彼女の美しい名を、なまじっか言葉に出さず内心密かに思うだけで逢わないまま数多くの日々が過ぎてしまった。かえって恋しさがまさり、重なってしまった。心を晴らすすべもなく、心砕けてたすきのように、気にかかる。口から密かに出てくる恋してやまないあの子を腕輪のように取り持つわけでも、鏡のように直接見るわけでもない。下の方が紅葉に染まった山を木の葉隠れに流れ下る水のように表には出てこない。このわが思いは安らかであろう筈があろうか。
白玉のような彼女の美しい名を、なまじっか言葉に出さず内心密かに思うだけで逢わないまま数多くの日々が過ぎてしまった。かえって恋しさがまさり、重なってしまった。心を晴らすすべもなく、心砕けてたすきのように、気にかかる。口から密かに出てくる恋してやまないあの子を腕輪のように取り持つわけでも、鏡のように直接見るわけでもない。下の方が紅葉に染まった山を木の葉隠れに流れ下る水のように表には出てこない。このわが思いは安らかであろう筈があろうか。
反 歌
1793 垣ほなす人の横言繁みかも逢はぬ日数多く月の経ぬらむ
(垣保成 人之横辞 繁香裳 不遭日數多 月乃經良武)
「垣ほなす」は「垣根のように私を取り巻いて」という、「人の横言(よこごと)繁(しげ)みかも」は「世間の口がうるさく激しくて」という意味である。
「垣根のように私を取り巻く世間の口がうるさく激しくて、逢おうにも逢えない日が続き、とうとう月替わりとなってしまった」という歌である。
1793 垣ほなす人の横言繁みかも逢はぬ日数多く月の経ぬらむ
(垣保成 人之横辞 繁香裳 不遭日數多 月乃經良武)
「垣ほなす」は「垣根のように私を取り巻いて」という、「人の横言(よこごと)繁(しげ)みかも」は「世間の口がうるさく激しくて」という意味である。
「垣根のように私を取り巻く世間の口がうるさく激しくて、逢おうにも逢えない日が続き、とうとう月替わりとなってしまった」という歌である。
1794 たち変り月重なりて逢はねどもさね忘らえず面影にして
(立易 月重而 難不遇 核不所忘 面影思天)
「たち変り」は「月が変わり」という意味。「さね」は「決して」ないし「少しも」という意味。相聞歌29首は本歌で終了。
「月が変わり、月も重なって逢えないままだけれども、決して彼女のことが忘れられない。いつまでも面影が見える」という歌である。
左注に「右三首は田邊福麻呂の歌集に登載されている」とある。
(2014年11月22日記、2018年8月2日記)
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(立易 月重而 難不遇 核不所忘 面影思天)
「たち変り」は「月が変わり」という意味。「さね」は「決して」ないし「少しも」という意味。相聞歌29首は本歌で終了。
「月が変わり、月も重なって逢えないままだけれども、決して彼女のことが忘れられない。いつまでも面影が見える」という歌である。
左注に「右三首は田邊福麻呂の歌集に登載されている」とある。
(2014年11月22日記、2018年8月2日記)