万葉集読解・・・122-1(1795~1806番歌)
挽歌(1795番歌~1811番歌の17首)
頭注に「宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)の宮所(みやところ)での歌」とある。宇治若郎子は十五代応神天皇の皇子。
1795 妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬松の木は古人見けむ
(妹等許 今木乃嶺 茂立 嬬待木者 古人見祁牟)
「妹らがり」は「彼女のもとに」という意味である。「今木(いまき)の嶺」は所在不詳。「今やってきた」という意味を重ねている。「嬬(つま)松の木は」は「夫を待つ」という意味を持たせた表現。分からないのが結句の「古人(ふるひと)見けむ」である。「古人も見た有名な松」という意味だろうか。が、本歌は挽歌のトップに掲げられた歌。「古人」を単純に「昔の人」と解したのでは挽歌にならない。宇治若郎子は応神天皇の太子だったが、義兄(後の仁徳天皇)と天皇位を譲り合い、義兄を天皇位につけるため自殺したとされる。そうだとすれば、本歌は自殺を直前に控えた若郎子の歌かも知れない。とすれば、古人とはかって妻だった女性で、今は亡き人という意味なのではあるまいか。
「愛する君のもとへ今やってきたよ。かって君はこの松を見、夫(つま)を待っていたんだよね。(まもなく私も)君のもとへ行くからね」という歌である。
挽歌(1795番歌~1811番歌の17首)
頭注に「宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)の宮所(みやところ)での歌」とある。宇治若郎子は十五代応神天皇の皇子。
1795 妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬松の木は古人見けむ
(妹等許 今木乃嶺 茂立 嬬待木者 古人見祁牟)
「妹らがり」は「彼女のもとに」という意味である。「今木(いまき)の嶺」は所在不詳。「今やってきた」という意味を重ねている。「嬬(つま)松の木は」は「夫を待つ」という意味を持たせた表現。分からないのが結句の「古人(ふるひと)見けむ」である。「古人も見た有名な松」という意味だろうか。が、本歌は挽歌のトップに掲げられた歌。「古人」を単純に「昔の人」と解したのでは挽歌にならない。宇治若郎子は応神天皇の太子だったが、義兄(後の仁徳天皇)と天皇位を譲り合い、義兄を天皇位につけるため自殺したとされる。そうだとすれば、本歌は自殺を直前に控えた若郎子の歌かも知れない。とすれば、古人とはかって妻だった女性で、今は亡き人という意味なのではあるまいか。
「愛する君のもとへ今やってきたよ。かって君はこの松を見、夫(つま)を待っていたんだよね。(まもなく私も)君のもとへ行くからね」という歌である。
頭注に「紀伊國で作った歌四首」とある。紀伊国は和歌山県から三重県南部にまたがる国。
1796 黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし磯を見れば悲しも
(黄葉之 過去子等 携 遊礒麻 見者悲裳)
「黄葉(もみちば)の過ぎにし」は「黄葉が散るように亡くなってしまった」という意味である。「子ら」は親愛の「ら」8。「携(たづさ)はり」は「手に手を取り合って」という意味。
「黄葉が散るように亡くなってしまった彼女と手に手を取り合って遊んだ、その磯を見ると悲しい」という歌である。
1796 黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし磯を見れば悲しも
(黄葉之 過去子等 携 遊礒麻 見者悲裳)
「黄葉(もみちば)の過ぎにし」は「黄葉が散るように亡くなってしまった」という意味である。「子ら」は親愛の「ら」8。「携(たづさ)はり」は「手に手を取り合って」という意味。
「黄葉が散るように亡くなってしまった彼女と手に手を取り合って遊んだ、その磯を見ると悲しい」という歌である。
1797 潮気立つ荒磯にはあれど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し
(塩氣立 荒礒丹者雖在 徃水之 過去妹之 方見等曽来)
「過ぎにし」が「亡くなる」という意味だと分かれば平明な歌。
「潮けむりが立つ荒磯だけれども、流れゆく水のように亡くなってしまった彼女の形見の場所だと思ってやってきた」という歌である。
(塩氣立 荒礒丹者雖在 徃水之 過去妹之 方見等曽来)
「過ぎにし」が「亡くなる」という意味だと分かれば平明な歌。
「潮けむりが立つ荒磯だけれども、流れゆく水のように亡くなってしまった彼女の形見の場所だと思ってやってきた」という歌である。
1798 いにしへに妹と我が見しぬばたまの黒牛潟を見れば寂しも
(古家丹 妹等吾見 黒玉之 久漏牛方乎 見佐府下)
「ぬばたまの」はお馴染みの枕詞。1672番歌にも詠われていたが、黒牛潟(くろうしがた)は和歌山県海南市の潟。
「その昔、彼女と一緒に眺めた黒牛潟、今私一人で見ていると寂しくてたまらない」という歌である。
(古家丹 妹等吾見 黒玉之 久漏牛方乎 見佐府下)
「ぬばたまの」はお馴染みの枕詞。1672番歌にも詠われていたが、黒牛潟(くろうしがた)は和歌山県海南市の潟。
「その昔、彼女と一緒に眺めた黒牛潟、今私一人で見ていると寂しくてたまらない」という歌である。
1799 玉津島磯の浦廻の真砂にもにほひて行かな妹も触れけむ
(玉津嶋 礒之裏未之 真名子仁文 尓保比去名 妹觸險)
玉津島は和歌山市和歌浦湾に浮かんでいたとされる島の一つ。和歌浦港の東方に旧村社の玉津島神社が鎮座している。918番歌、1215番歌等にも詠われているように、当時絶好の景勝地だったようである。「浦廻(うらみ)の」の廻(み)は、「~辺り」という意味.。「にほひて」は「染まる」という意味である。
「玉津島の磯の浦辺の白砂に染まって行こう、亡くなった彼女も浴びただろうその白砂に」という歌である。
左注に「右の五首は柿本朝臣人麻呂の歌集に登載されている」とある。
(玉津嶋 礒之裏未之 真名子仁文 尓保比去名 妹觸險)
玉津島は和歌山市和歌浦湾に浮かんでいたとされる島の一つ。和歌浦港の東方に旧村社の玉津島神社が鎮座している。918番歌、1215番歌等にも詠われているように、当時絶好の景勝地だったようである。「浦廻(うらみ)の」の廻(み)は、「~辺り」という意味.。「にほひて」は「染まる」という意味である。
「玉津島の磯の浦辺の白砂に染まって行こう、亡くなった彼女も浴びただろうその白砂に」という歌である。
左注に「右の五首は柿本朝臣人麻呂の歌集に登載されている」とある。
頭注に「足柄の坂を過ぎる際、行き倒れの死者を見て作った歌」とある。「足柄の坂」は足柄峠のことで、箱根山の北にある交通の要所。
1800番 長歌
小垣内の 麻を引き干し 妹なねが 作り着せけむ 白栲の 紐をも解かず 一重結ふ 帯を三重結ひ 苦しきに 仕へ奉りて 今だにも 国に罷りて 父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鶏が鳴く 東の国の 畏きや 神の御坂に 和妙の 衣寒らに ぬばたまの 髪は乱れて 国問へど 国をも告らず 家問へど 家をも言はず ますらをの 行きのまにまに ここに臥やせる
(小垣内之 麻矣引干 妹名根之 作服異六 白細乃 紐緒毛不解 一重結 帶矣三重結 <苦>伎尓 仕奉而 今谷裳 國尓退而 父妣毛 妻矣毛将見跡 思乍 徃祁牟君者 鳥鳴 東國能 恐耶 神之三坂尓 和霊乃 服寒等丹 烏玉乃 髪者乱而 邦問跡 國矣毛不告 家問跡 家矣毛不云 益荒夫乃 去能進尓 此間偃有)
1800番 長歌
小垣内の 麻を引き干し 妹なねが 作り着せけむ 白栲の 紐をも解かず 一重結ふ 帯を三重結ひ 苦しきに 仕へ奉りて 今だにも 国に罷りて 父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鶏が鳴く 東の国の 畏きや 神の御坂に 和妙の 衣寒らに ぬばたまの 髪は乱れて 国問へど 国をも告らず 家問へど 家をも言はず ますらをの 行きのまにまに ここに臥やせる
(小垣内之 麻矣引干 妹名根之 作服異六 白細乃 紐緒毛不解 一重結 帶矣三重結 <苦>伎尓 仕奉而 今谷裳 國尓退而 父妣毛 妻矣毛将見跡 思乍 徃祁牟君者 鳥鳴 東國能 恐耶 神之三坂尓 和霊乃 服寒等丹 烏玉乃 髪者乱而 邦問跡 國矣毛不告 家問跡 家矣毛不云 益荒夫乃 去能進尓 此間偃有)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「小垣内(をかきつ)」は「垣根の内」のこと。「妹なね」の「なね」は「子ら」の「ら」と同様親愛を表す。「鶏が鳴く」は9例あって、すべて「あづま」にかかる枕詞。「和妙(にきたへ)の衣寒らに」は「やわらかな着物も寒げに着て」という意味である。
(口語訳)
垣根内の庭の麻を引っこ抜いて干し、妻が作って着せてくれた真っ白な紐も解かず、一重に巻いてくれた帯、その帯が今では三重に巻けるほど痩せ細ってしまった身。辛さに耐えて、大君に仕え奉ってきた。任務が終わり、いっときも早く、国に帰って父母に会い、妻にも逢おうと帰路を急いでいた君。その遠い東(あづま)の国の恐れ多い神の峠にさしかかって、やわらかな着物も寒げに着て髪はばらばらに乱れたまま。「国はどこか」と訊いても答えず、「家はどこか」と聞いても答えない。そのお人はここに行き倒れになって横たわっている。
垣根内の庭の麻を引っこ抜いて干し、妻が作って着せてくれた真っ白な紐も解かず、一重に巻いてくれた帯、その帯が今では三重に巻けるほど痩せ細ってしまった身。辛さに耐えて、大君に仕え奉ってきた。任務が終わり、いっときも早く、国に帰って父母に会い、妻にも逢おうと帰路を急いでいた君。その遠い東(あづま)の国の恐れ多い神の峠にさしかかって、やわらかな着物も寒げに着て髪はばらばらに乱れたまま。「国はどこか」と訊いても答えず、「家はどこか」と聞いても答えない。そのお人はここに行き倒れになって横たわっている。
頭注に「葦屋(あしのや)の處女(をとめ)の墓を過ぎる際作った歌と短歌」とある。葦屋は兵庫県芦屋市。
1801番 長歌
古への ますら壮士の 相競ひ 妻問ひしけむ 葦屋の 菟原娘子の 奥城を 我が立ち見れば 長き世の 語りにしつつ 後人の 偲ひにせむと 玉桙の 道の辺近く 岩構へ 造れる塚を 天雲の そくへの極み この道を 行く人ごとに 行き寄りて い立ち嘆かひ ある人は 哭にも泣きつつ 語り継ぎ 偲ひ継ぎくる 娘子らが 奥城処 我れさへに 見れば悲しも 古へ思へば
(古之 益荒丁子 各競 妻問為祁牟 葦屋乃 菟名日處女乃 奥城矣 吾立見者 永世乃 語尓為乍 後人 偲尓世武等 玉桙乃 道邊近 磐構 作冢矣 天雲乃 退部乃限 此道矣 去人毎 行因 射立嘆日 或人者 啼尓毛哭乍 語嗣 偲継来 處女等賀 奥城所 吾并 見者悲喪 古思者)
1801番 長歌
古への ますら壮士の 相競ひ 妻問ひしけむ 葦屋の 菟原娘子の 奥城を 我が立ち見れば 長き世の 語りにしつつ 後人の 偲ひにせむと 玉桙の 道の辺近く 岩構へ 造れる塚を 天雲の そくへの極み この道を 行く人ごとに 行き寄りて い立ち嘆かひ ある人は 哭にも泣きつつ 語り継ぎ 偲ひ継ぎくる 娘子らが 奥城処 我れさへに 見れば悲しも 古へ思へば
(古之 益荒丁子 各競 妻問為祁牟 葦屋乃 菟名日處女乃 奥城矣 吾立見者 永世乃 語尓為乍 後人 偲尓世武等 玉桙乃 道邊近 磐構 作冢矣 天雲乃 退部乃限 此道矣 去人毎 行因 射立嘆日 或人者 啼尓毛哭乍 語嗣 偲継来 處女等賀 奥城所 吾并 見者悲喪 古思者)
「ますら壮士(をとこ)」は「雄々しい男」という意味で、「益荒男(ますらお)」に同じ。「菟原娘子(うなひをとめ)」は兵庫県芦屋市にあった菟原郡の娘のこと。奥城(おくつき)は墓のこと。「そくへの極み」は「遠く離れた極み」という意味である。{娘子(をとめ)ら」は親愛の「ら」。
(口語訳)
昔の雄々しい男たちが競って求婚した葦屋の菟原娘子(うなひをとめ)の墓所の前に立って眺めると、長い行く末の語り草にしようと、後の人々の、偲ぶよすがにしようと、道の近くに岩を構えて造った塚。天雲離れた遠い果てからやってくるこの道の誰もが立ち寄って、嘆き、人によっては声を上げて泣き、後の世に語り継ぎ、偲ぶよすがにするだろう。娘子(をとめ)の墓所。この私さえ眺めていると悲しくなる。昔々のことを思って。
(口語訳)
昔の雄々しい男たちが競って求婚した葦屋の菟原娘子(うなひをとめ)の墓所の前に立って眺めると、長い行く末の語り草にしようと、後の人々の、偲ぶよすがにしようと、道の近くに岩を構えて造った塚。天雲離れた遠い果てからやってくるこの道の誰もが立ち寄って、嘆き、人によっては声を上げて泣き、後の世に語り継ぎ、偲ぶよすがにするだろう。娘子(をとめ)の墓所。この私さえ眺めていると悲しくなる。昔々のことを思って。
反 歌
1802 古への信太壮士の妻問ひし菟原娘子の奥城ぞこれ
(古乃 小竹田丁子乃 妻問石 菟會處女乃 奥城叙此)
「信太壮士(しのだをとこ)」とは和泉の国(大阪府和泉市)の男という意味である。「菟原娘子(うなひをとめ)の奥城(おくつき)」は前歌参照。信太壮士は、後出の1810番長歌や1811番歌には茅渟壮士(ちぬをとこ)と表記されている。和泉(大阪府和泉市)の信太壮士は、葦屋(兵庫県芦屋市)の菟原娘子にとってはよその国の男。いくら求婚されても受け入れるわけにはいかない。「奥城(おくつき)」は墓所。
「その昔、私のように遠くからやってきた信太壮士が求婚した菟原娘子。その乙女が眠る墓所なんだな、ここは」という歌である。
1802 古への信太壮士の妻問ひし菟原娘子の奥城ぞこれ
(古乃 小竹田丁子乃 妻問石 菟會處女乃 奥城叙此)
「信太壮士(しのだをとこ)」とは和泉の国(大阪府和泉市)の男という意味である。「菟原娘子(うなひをとめ)の奥城(おくつき)」は前歌参照。信太壮士は、後出の1810番長歌や1811番歌には茅渟壮士(ちぬをとこ)と表記されている。和泉(大阪府和泉市)の信太壮士は、葦屋(兵庫県芦屋市)の菟原娘子にとってはよその国の男。いくら求婚されても受け入れるわけにはいかない。「奥城(おくつき)」は墓所。
「その昔、私のように遠くからやってきた信太壮士が求婚した菟原娘子。その乙女が眠る墓所なんだな、ここは」という歌である。
1803 語り継ぐからにもここだ恋しきを直目に見けむ古へ壮士
(語継 可良仁文幾許 戀布矣 直目尓見兼 古丁子)
「語り継ぐからにも」は「語り継ぐだけでも」という、「ここだ恋しきを」は「こんなに恋しいのに」という意味。「直(ただ)目に見けむ」は「直接目にした」という意味である。
「こうして語り継ぐだけでもどんな女性だったろうと逢いたくなるのに。直接目にした古への男たちはどれほど恋いこがれたことだろう」という歌である。
(語継 可良仁文幾許 戀布矣 直目尓見兼 古丁子)
「語り継ぐからにも」は「語り継ぐだけでも」という、「ここだ恋しきを」は「こんなに恋しいのに」という意味。「直(ただ)目に見けむ」は「直接目にした」という意味である。
「こうして語り継ぐだけでもどんな女性だったろうと逢いたくなるのに。直接目にした古への男たちはどれほど恋いこがれたことだろう」という歌である。
頭注に「弟の死去を悲しんで作った歌と短歌」とある。
1804番 長歌
父母が 成しのまにまに 箸向ふ 弟の命は 朝露の 消やすき命 神の共 争ひかねて 葦原の 瑞穂の国に 家なみか また帰り来ぬ 遠つ国 黄泉の境に 延ふ蔦の おのが向き向き 天雲の 別れし行けば 闇夜なす 思ひ惑はひ 射ゆ鹿の 心を痛み 葦垣の 思ひ乱れて 春鳥の 哭のみ泣きつつ あぢさはふ 夜昼知らず かぎろひの 心燃えつつ 嘆く別れを
(父母賀 成乃任尓 箸向 弟乃命者 朝露乃 銷易杵壽 神之共 荒競不勝而 葦原乃 水穂之國尓 家無哉 又還不来 遠津國 黄泉乃界丹 蔓都多乃 各<々>向々 天雲乃 別石徃者 闇夜成 思迷匍匐 所射十六乃 意矣痛 葦垣之 思乱而 春鳥能 啼耳鳴乍 味澤相 宵晝不<知> 蜻蜒火之 心所燎管 悲悽別焉)
1804番 長歌
父母が 成しのまにまに 箸向ふ 弟の命は 朝露の 消やすき命 神の共 争ひかねて 葦原の 瑞穂の国に 家なみか また帰り来ぬ 遠つ国 黄泉の境に 延ふ蔦の おのが向き向き 天雲の 別れし行けば 闇夜なす 思ひ惑はひ 射ゆ鹿の 心を痛み 葦垣の 思ひ乱れて 春鳥の 哭のみ泣きつつ あぢさはふ 夜昼知らず かぎろひの 心燃えつつ 嘆く別れを
(父母賀 成乃任尓 箸向 弟乃命者 朝露乃 銷易杵壽 神之共 荒競不勝而 葦原乃 水穂之國尓 家無哉 又還不来 遠津國 黄泉乃界丹 蔓都多乃 各<々>向々 天雲乃 別石徃者 闇夜成 思迷匍匐 所射十六乃 意矣痛 葦垣之 思乱而 春鳥能 啼耳鳴乍 味澤相 宵晝不<知> 蜻蜒火之 心所燎管 悲悽別焉)
「箸向ふ」は「向かう二本の箸のように」という意味。「箸向ふ」や「遠つ国」はともに枕詞説があるが、本歌一例のみで、枕詞(?)。「春鳥の」は3例あるが、すべてかかる言葉が異なり、かつ、意味が通る。枕詞(?)。「葦垣の」と「あぢさはふ」は枕詞。
(口語訳)
父母が向かう二本の箸のように私と並んで生んでくれた弟は、朝露のように消えやすい命だったのか、神の思し召しに抗うことは出来ず、この瑞穂の国(日本の国)に帰ってくる家もなくなった。遠い遠い黄泉(よみ)の国(死者の国)の境に延びる蔦のように、自分で向かうように、別れてしまった。闇夜のようなわが心は思い惑い、射られた鹿のように、心が痛み、葦垣のように想い乱れ、春の鳥のように声をあげて泣くばかり。夜も昼も分からなくなり、かげろうのように心は燃えて別れを嘆くばかり。
父母が向かう二本の箸のように私と並んで生んでくれた弟は、朝露のように消えやすい命だったのか、神の思し召しに抗うことは出来ず、この瑞穂の国(日本の国)に帰ってくる家もなくなった。遠い遠い黄泉(よみ)の国(死者の国)の境に延びる蔦のように、自分で向かうように、別れてしまった。闇夜のようなわが心は思い惑い、射られた鹿のように、心が痛み、葦垣のように想い乱れ、春の鳥のように声をあげて泣くばかり。夜も昼も分からなくなり、かげろうのように心は燃えて別れを嘆くばかり。
反 歌
1805 別れてもまたも逢ふべく思ほえば心乱れて我れ恋ひめやも [一云 心尽して]
(別而裳 復毛可遭 所念者 心乱 吾戀目八方 [一云 意盡而])
前歌の長歌を読めば平明歌。
「別れても、いつか再会出来ると思えるのなら、こんなに心取り乱して忍ぶことはあるまいに」という歌である。
異伝は「心乱れて」の部分が「心尽して」となっている。「一心に」という意味。
1805 別れてもまたも逢ふべく思ほえば心乱れて我れ恋ひめやも [一云 心尽して]
(別而裳 復毛可遭 所念者 心乱 吾戀目八方 [一云 意盡而])
前歌の長歌を読めば平明歌。
「別れても、いつか再会出来ると思えるのなら、こんなに心取り乱して忍ぶことはあるまいに」という歌である。
異伝は「心乱れて」の部分が「心尽して」となっている。「一心に」という意味。
1806 あしひきの荒山中に送り置きて帰らふ見れば心苦しも
(蘆桧木笶 荒山中尓 送置而 還良布見者 情苦喪)
「あしひきの」はおなじみの枕詞。本歌も前歌同様平明歌。
「荒涼とした山中に野辺送りを済ませ、人々が次々に帰っていくのをみていると心苦しい」という歌である。
左注に「右の七首は田邊福麻呂の歌集に登載されている」とある。
(2014年11月24日記、2018年8月5日記)
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(蘆桧木笶 荒山中尓 送置而 還良布見者 情苦喪)
「あしひきの」はおなじみの枕詞。本歌も前歌同様平明歌。
「荒涼とした山中に野辺送りを済ませ、人々が次々に帰っていくのをみていると心苦しい」という歌である。
左注に「右の七首は田邊福麻呂の歌集に登載されている」とある。
(2014年11月24日記、2018年8月5日記)