万葉集読解・・・122-2(1807~1811番歌)
頭注に「勝鹿真間娘子(かつしかのままのをとめ)を詠った歌と短歌」とある。「勝鹿」は千葉、埼玉、東京にまたがる一帯で、下総国(しもうさのくに)。
1807番 長歌
鶏が鳴く 東の国に 古へに ありけることと 今までに 絶えず言ひける 勝鹿の 真間の手児名が 麻衣に 青衿着け ひたさ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳らず 沓をだに はかず行けども 錦綾の 中に包める 斎ひ子も 妹にしかめや 望月の 足れる面わに 花のごと 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 港入りに 舟漕ぐごとく 行きかぐれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒く港の 奥城に 妹が臥やせる 遠き代に ありけることを 昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも
(鶏鳴 吾妻乃國尓 古昔尓 有家留事登 至今 不絶言来 勝<壮>鹿乃 真間乃手兒奈我 麻衣尓 青衿著 直佐麻乎 裳者織服而 髪谷母 掻者不梳 履乎谷 不著雖行 錦綾之 中丹?有 齊兒毛 妹尓将及哉 望月之 満有面輪二 如花 咲而立有者 夏蟲乃 入火之如 水門入尓 船己具如久 歸香具礼 人乃言時 幾時毛 不生物<呼> 何為跡歟 身乎田名知而 浪音乃 驟湊之 奥津城尓 妹之臥勢流 遠代尓 有家類事乎 昨日霜 将見我其登毛 所念可聞)
頭注に「勝鹿真間娘子(かつしかのままのをとめ)を詠った歌と短歌」とある。「勝鹿」は千葉、埼玉、東京にまたがる一帯で、下総国(しもうさのくに)。
1807番 長歌
鶏が鳴く 東の国に 古へに ありけることと 今までに 絶えず言ひける 勝鹿の 真間の手児名が 麻衣に 青衿着け ひたさ麻を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳らず 沓をだに はかず行けども 錦綾の 中に包める 斎ひ子も 妹にしかめや 望月の 足れる面わに 花のごと 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 港入りに 舟漕ぐごとく 行きかぐれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒く港の 奥城に 妹が臥やせる 遠き代に ありけることを 昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも
(鶏鳴 吾妻乃國尓 古昔尓 有家留事登 至今 不絶言来 勝<壮>鹿乃 真間乃手兒奈我 麻衣尓 青衿著 直佐麻乎 裳者織服而 髪谷母 掻者不梳 履乎谷 不著雖行 錦綾之 中丹?有 齊兒毛 妹尓将及哉 望月之 満有面輪二 如花 咲而立有者 夏蟲乃 入火之如 水門入尓 船己具如久 歸香具礼 人乃言時 幾時毛 不生物<呼> 何為跡歟 身乎田名知而 浪音乃 驟湊之 奥津城尓 妹之臥勢流 遠代尓 有家類事乎 昨日霜 将見我其登毛 所念可聞)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「鶏が鳴く」は枕詞。「東の国」は漠然としているが、静岡県や長野県以東を指した。「真間の手児名(てごな)」は千葉県市川市真間に伝わる伝説の娘子(をとめ)。「青衿(あをくび)」は青い襟。「ひたさ麻」は強意の「さ」で、「ひた麻」のこと。「麻そのもの」という意味。「足れる面わに」は「まあるい顔をして」という意味。
(口語訳)
東国にあったことと今日まで語り継いできた勝鹿の真間(千葉県市川市)の手児名(てごな)伝説。その手児名が、粗末な麻の着物、青い襟を付けた着物に、これも粗末な麻で織った裳(スカート)を着け、髪は櫛けらず、沓さえはかないままの姿で歩いていく。高級な錦や綾を身に包んだ宝のような子たちも手児名にかなうだろうか。
満月のような十五夜の月に似た顔立ちは、花のように美しく、微笑んで立っていると、夏の虫が日に飛び込んでくるように、港に入る舟が漕ぎ集まって男たちは手児名に集まってきて言葉をかけた。
が、人というのはさほど長く生きる身ではないと知りながら、波の音が騒がしい港の墓所に彼女は眠っている。遠い昔にあったことが、つい昨日あったことのように想われる。
東国にあったことと今日まで語り継いできた勝鹿の真間(千葉県市川市)の手児名(てごな)伝説。その手児名が、粗末な麻の着物、青い襟を付けた着物に、これも粗末な麻で織った裳(スカート)を着け、髪は櫛けらず、沓さえはかないままの姿で歩いていく。高級な錦や綾を身に包んだ宝のような子たちも手児名にかなうだろうか。
満月のような十五夜の月に似た顔立ちは、花のように美しく、微笑んで立っていると、夏の虫が日に飛び込んでくるように、港に入る舟が漕ぎ集まって男たちは手児名に集まってきて言葉をかけた。
が、人というのはさほど長く生きる身ではないと知りながら、波の音が騒がしい港の墓所に彼女は眠っている。遠い昔にあったことが、つい昨日あったことのように想われる。
反 歌
1808 勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
(勝壮鹿之 真間之井見者 立平之 水把家武 手兒名之所念)
「勝鹿の真間」は千葉県市川市。432番歌や433番歌にも詠われている。
「立ち平(なら)し」は意味不明。おそらく「立ち並んで」という意味。
「勝鹿の真間の井戸にやってきて、立ち並んで水を汲んでいる女性たちを見ていると、かってここにいた真間娘子が忍ばれる」という歌である。
1808 勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
(勝壮鹿之 真間之井見者 立平之 水把家武 手兒名之所念)
「勝鹿の真間」は千葉県市川市。432番歌や433番歌にも詠われている。
「立ち平(なら)し」は意味不明。おそらく「立ち並んで」という意味。
「勝鹿の真間の井戸にやってきて、立ち並んで水を汲んでいる女性たちを見ていると、かってここにいた真間娘子が忍ばれる」という歌である。
頭注に「菟原娘子(うなひをとめ)の墓を見て詠んだ歌と短歌」とある。菟原娘子は兵庫県芦屋市の菟原(うなひ)郡にいたという伝説の乙女。その南に大阪府和泉市がある。
1809番 長歌
葦屋の 菟原娘子の 八年子の 片生ひの時ゆ 小放りに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿の 隠りて居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の問ふ時 茅渟壮士 菟原壮士の 伏屋焚き すすし競ひ 相よばひ しける時は 焼太刀の 手かみ押しねり 白真弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく しつたまき いやしき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠り沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 茅渟壮士 その夜夢に見 とり続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地を踏み きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 懸け佩きの 小太刀取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族どち い行き集ひ 長き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 娘子墓 中に造り置き 壮士墓 このもかのもに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新裳のごとも 哭泣きつるかも
(葦屋之 菟名負處女之 八年兒之 片生之時従 小放尓 髪多久麻弖尓 並居 家尓毛不所見 虚木綿乃 牢而座在者 見而師香跡 <悒>憤時之 垣廬成 人之誂時 智<弩><壮>士 宇奈比<壮>士乃 廬八燎 須酒師競 相結婚 為家類時者 焼大刀乃 手頴押祢利 白檀弓 <靫>取負而 入水 火尓毛将入跡 立向 競時尓 吾妹子之 母尓語久 倭<文>手纒 賎吾之故 大夫之 荒争見者 雖生 應合有哉 <宍>串呂 黄泉尓将待跡 隠沼乃 下延置而 打歎 妹之去者 血沼<壮>士 其夜夢見 取次寸 追去祁礼婆 後有 菟原<壮>士伊 仰天 (口+リ)於良妣 ひ地 牙喫建怒而 如己男尓 負而者不有跡 懸佩之 小劔取佩 冬ふ蕷都良 尋去祁礼婆 親族共 射歸集 永代尓 標将為跡 遐代尓 語将継常 處女墓 中尓造置 <壮>士墓 此方彼方二 造置有 故縁聞而 雖不知 新喪之如毛 哭泣鶴鴨)
1809番 長歌
葦屋の 菟原娘子の 八年子の 片生ひの時ゆ 小放りに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿の 隠りて居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の問ふ時 茅渟壮士 菟原壮士の 伏屋焚き すすし競ひ 相よばひ しける時は 焼太刀の 手かみ押しねり 白真弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく しつたまき いやしき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠り沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 茅渟壮士 その夜夢に見 とり続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地を踏み きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 懸け佩きの 小太刀取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族どち い行き集ひ 長き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 娘子墓 中に造り置き 壮士墓 このもかのもに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新裳のごとも 哭泣きつるかも
(葦屋之 菟名負處女之 八年兒之 片生之時従 小放尓 髪多久麻弖尓 並居 家尓毛不所見 虚木綿乃 牢而座在者 見而師香跡 <悒>憤時之 垣廬成 人之誂時 智<弩><壮>士 宇奈比<壮>士乃 廬八燎 須酒師競 相結婚 為家類時者 焼大刀乃 手頴押祢利 白檀弓 <靫>取負而 入水 火尓毛将入跡 立向 競時尓 吾妹子之 母尓語久 倭<文>手纒 賎吾之故 大夫之 荒争見者 雖生 應合有哉 <宍>串呂 黄泉尓将待跡 隠沼乃 下延置而 打歎 妹之去者 血沼<壮>士 其夜夢見 取次寸 追去祁礼婆 後有 菟原<壮>士伊 仰天 (口+リ)於良妣 ひ地 牙喫建怒而 如己男尓 負而者不有跡 懸佩之 小劔取佩 冬ふ蕷都良 尋去祁礼婆 親族共 射歸集 永代尓 標将為跡 遐代尓 語将継常 處女墓 中尓造置 <壮>士墓 此方彼方二 造置有 故縁聞而 雖不知 新喪之如毛 哭泣鶴鴨)
「八年子の」は「八歳頃の子供の」という、「片生ひの時ゆ」は「まだ幼い時から」という意味。「~から」の「ゆ」。「小放(をばな)りに」は「解き放った」という意味で、1244番歌に「娘子らが放りの髪を~」とある。「髪たくまでに」は「髪を結い上げて」という意味。「並び居る家」は「隣近所の家」のとと。「茅渟壮士(ちぬをとこ)」は「隣国和泉(大阪府和泉市)の男」という。「菟原壮士(うなひをとこ)」はいうまでもなく「菟原娘子(うなひをとめ)と同郷の男」。「きかみたけびて」は「歯ぎしりして怒り声をあげ」という、「もころ男」は「競争相手」という意味。「懸け佩きの小太刀取り佩き」は「肩にかけた小太刀を取って」という意味である。
「虚木綿の(うつゆふの)」、「伏屋焚き(ふせやたき)」及び「ししくしろ 」は3例とも用例なく、本歌のみ。枕詞(?)。「しつたまき)」は枕詞。「ところづら」は1133番歌に「すめろきの神の宮人ところづらいやとこしくに我れかへり見む」という用例があるが、「ヤマイモの蔓(つる)」と解して{ヤマイモの蔓のように末永くまたやって来よう」と歌意にぴったり。なので実質的に「ところづら」は本歌一例のみで枕詞(?)。
「虚木綿の(うつゆふの)」、「伏屋焚き(ふせやたき)」及び「ししくしろ 」は3例とも用例なく、本歌のみ。枕詞(?)。「しつたまき)」は枕詞。「ところづら」は1133番歌に「すめろきの神の宮人ところづらいやとこしくに我れかへり見む」という用例があるが、「ヤマイモの蔓(つる)」と解して{ヤマイモの蔓のように末永くまたやって来よう」と歌意にぴったり。なので実質的に「ところづら」は本歌一例のみで枕詞(?)。
(口語訳)
葦屋(兵庫県芦屋市)に伝わる伝説の菟原娘子(うなひをとめ)は 八歳頃の子供のまだ幼い頃、髪を解き放ち髪を結い上げるまで、隣近所の家の人もほとんど知らないほど、家にこもっていた。彼女を一目みたいものだと待ち遠しがって男たちが垣根のように取り囲んで見にきた。中でも隣国の茅渟壮士(ちぬをとこ)と同郷の菟原壮士(うなひをとこ)が結婚を迫って激しく争った。求婚に求婚を繰り返し、焼き太刀の柄を握りしめ、 白真弓の靫(矢を入れる具)を取り負ひて、彼女のためなら水の中火の中も辞さないと二人は争った。
そんな時、彼女は母親に相談した。「私のようないやしい者を求めて立派な殿方が争っているのを見ると、生きた心地がしなく、添い遂げられる筈がありましょうか。いっそ黄泉の国(死者の国)に行って待つことにしたい」と言って彼女は心の底を明かすことなく、嘆き抜いてあの世に行ってしまった。
茅渟壮士(ちぬをとこ)はその夜、これを夢に見、彼女に続いてあの世に追っていった。遅れをとったと菟原壮士(うなひをとこ)は天を仰ぎ、叫びわめき、競争相手に負けてはならじと、肩にかけた小太刀を取って彼女を求めてあの世に行ってしまった。
関係者の親族一同、寄り集まって、記念に代々語り継ぐことにしようと、娘子(をとめ)の墓を真ん中に造り、男たちの墓をこちらとあちらに造ったという。こんな謂われがあると聞いて、知らなかったけれど、今亡くなった人の話のように声をあげて泣けてきてしまった。
葦屋(兵庫県芦屋市)に伝わる伝説の菟原娘子(うなひをとめ)は 八歳頃の子供のまだ幼い頃、髪を解き放ち髪を結い上げるまで、隣近所の家の人もほとんど知らないほど、家にこもっていた。彼女を一目みたいものだと待ち遠しがって男たちが垣根のように取り囲んで見にきた。中でも隣国の茅渟壮士(ちぬをとこ)と同郷の菟原壮士(うなひをとこ)が結婚を迫って激しく争った。求婚に求婚を繰り返し、焼き太刀の柄を握りしめ、 白真弓の靫(矢を入れる具)を取り負ひて、彼女のためなら水の中火の中も辞さないと二人は争った。
そんな時、彼女は母親に相談した。「私のようないやしい者を求めて立派な殿方が争っているのを見ると、生きた心地がしなく、添い遂げられる筈がありましょうか。いっそ黄泉の国(死者の国)に行って待つことにしたい」と言って彼女は心の底を明かすことなく、嘆き抜いてあの世に行ってしまった。
茅渟壮士(ちぬをとこ)はその夜、これを夢に見、彼女に続いてあの世に追っていった。遅れをとったと菟原壮士(うなひをとこ)は天を仰ぎ、叫びわめき、競争相手に負けてはならじと、肩にかけた小太刀を取って彼女を求めてあの世に行ってしまった。
関係者の親族一同、寄り集まって、記念に代々語り継ぐことにしようと、娘子(をとめ)の墓を真ん中に造り、男たちの墓をこちらとあちらに造ったという。こんな謂われがあると聞いて、知らなかったけれど、今亡くなった人の話のように声をあげて泣けてきてしまった。
反 歌
1810 芦屋の菟原娘子の奥城を徃き来と見れば哭のみし泣かゆ
芦屋は兵庫県芦屋市の伝説の地。奥城(おくつき)は墓のこと。「徃(ゆ)き来(く)と」は「往くとて来るとて」の縮まった言い方で、「往きも帰りも通るたびに」という意味である。「哭(ね)のみし」は「声をあげて泣きたくなるほど」という意味。
「芦屋の菟原娘子(うなひをとめ)の墓を往きも帰りも通るたびに見るが、あまりに切なく悲しくて泣けてきてしまう」という歌である。
1810 芦屋の菟原娘子の奥城を徃き来と見れば哭のみし泣かゆ
芦屋は兵庫県芦屋市の伝説の地。奥城(おくつき)は墓のこと。「徃(ゆ)き来(く)と」は「往くとて来るとて」の縮まった言い方で、「往きも帰りも通るたびに」という意味である。「哭(ね)のみし」は「声をあげて泣きたくなるほど」という意味。
「芦屋の菟原娘子(うなひをとめ)の墓を往きも帰りも通るたびに見るが、あまりに切なく悲しくて泣けてきてしまう」という歌である。
1811 墓の上の木の枝靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも
(墓上之 木枝靡有 如聞 陳努壮士尓之 依家良信母)
「木の枝靡けり」は「隣国の和泉の方向に靡いている」という意味である。
「乙女の墓の上の木の枝はなびいて伝説のとおり茅渟男(ちぬをとこ)の国の方に寄っている」という歌である。
左注に「右の五首は高橋連蟲麻呂の歌集に登載されている」とある。
以上で巻9は完了し、次回から巻10である。
(2018年8月10日記)
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(墓上之 木枝靡有 如聞 陳努壮士尓之 依家良信母)
「木の枝靡けり」は「隣国の和泉の方向に靡いている」という意味である。
「乙女の墓の上の木の枝はなびいて伝説のとおり茅渟男(ちぬをとこ)の国の方に寄っている」という歌である。
左注に「右の五首は高橋連蟲麻呂の歌集に登載されている」とある。
以上で巻9は完了し、次回から巻10である。
(2018年8月10日記)