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万葉集読解・・・127(1886~1902番歌)

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     万葉集読解・・・127(1886~1902番歌)
 頭注に「懽逢(かんぽう)」とある。懽逢は「出会いを喜ぶ」こと。
1886   住吉の里行きしかば春花のいやめづらしき君に逢へるかも
      (佐吉之 里<行>之鹿歯 春花乃 益希見 君相有香開)
「住吉(すみのえ)の里」は大阪市住吉区のあたり。「いやめづらしき」は「いや愛らしい」という意味である。
 「住吉の里に出かけたら、春の花のような明るいあなたに久々に出会ってうれしかった」という歌である。

 頭注に「旋頭歌」とある。旋頭歌は五七七五七七で詠われる歌。本歌と次歌。
1887  春日なる御笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく
      (春日在 三笠乃山尓 月母出奴可母 佐紀山尓 開有櫻之 花乃可見)
 「春日なる御笠の山」は、平城京の東方春日山近辺の山。佐紀山はその西方の丘陵地帯。「月も出でぬかも」は願望の「かも」。「見ゆべく」は「見られるのに」という意味。」
 「春日なる御笠の山に月が顔を出してくれないかなあ。佐紀山に咲いている桜の花がよく見えるのに」という歌である。                             

1888  白雪の常敷く冬は過ぎにけらしも春霞たなびく野辺の鴬鳴くも
      (白雪之 常敷冬者 過去家良霜 春霞 田菜引野邊之 鴬鳴焉)
 「常敷(つねし)く冬は」は「(白雪が)野辺一面に積もっている冬は」という意味である。 「白雪が野辺一面に積もっていた冬は過ぎ去ったようだ。春霞がたなびき野辺ではウグイスが鳴いている」という歌である。

 頭注に「譬喩歌(比喩歌)」とある。
1889  我が屋前の毛桃の下に月夜さし下心よしうたてこのころ
      (吾屋前之 毛桃之下尓 月夜指 下心吉 菟楯項者)
 「我が屋前(やど)」は「我が家の庭」のこと。「下心よし」は現代ではあまりいい意味に使われないが、ここは「ひそかにうれし」という意味である。「うたて」は初出である。結句の「うたてこのころ」の形で、この後、2464番歌及び2877番歌に出てくる。「この頃ますます」という意味である。何を比喩しているのか分からないが、「岩波大系本」は毛桃を娘の成長した姿にたとえた母の心情と解している。
「我が家の庭の毛桃の木の下に月光が射し込んでいる。ひそかに心楽しい、この頃ますます」という歌である。

 頭注に「春相聞」とある。1890~1936番歌の47首。
1890  春山の友鴬の鳴き別れ帰ります間も思ほせ我れを
      (春山 友鴬 鳴別 眷益間 思御吾)
 「春山の友鴬の鳴き別れ」は「春山ではウグイスが仲間同士で鳴き別れていく」という意味。「帰ります間も」は「お帰りの道すがらにでも」という意味である。なぜ泣く泣く別れなければならないのか、詠われていないので、どこかすっきりしない歌である。
 「春山ではウグイスが仲間同士で鳴き別れていくように、(私たちも)泣く泣くお別れしなくてはなりません。お帰りの道すがらにでもお思い下さい、私のことを」という歌である。

1891  冬こもり春咲く花を手折り持ち千たびの限り恋ひわたるかも
      (冬隠 春開花 手折以 千遍限 戀渡鴨)
 「冬こもり」は1824番歌の際に詳述したように、枕詞ではない。原文「冬隠」に着目すれば、「冬が隠れる」すなわち、「冬が去って」という意味である。「千(ち)たびの限り」は「いつまでもいつまでも」という意味。「恋ひわたる」は「恋続ける」こと。
 「冬が去って春に咲いた花を手折り持ち、いつまでもいつまでもあなたのことを恋続けています」という歌である。

1892  春山の霧に惑へる鴬も我れにまさりて物思はめやも
      (春山 霧惑在 鴬 我益 物念哉)
 結句の「物思はめやも」は「恋いまどうだろうか」という意味。
 「霧がかかった春の山にあってウグイスは道に迷うだろう。けれど、この私ほど強く恋いまどうだろうか」という歌である。

1893  出でて見る向ひの岡に本茂く咲きたる花のならずはやまじ
      (出見 向岡 本繁 開在花 不成不止)
 「本茂く」は「根元までいっぱいに」という意味。仰ぎ見る岡の上に咲く花なので、根元までぴっしり咲いて見えたかも知れない。結句の「ならずはやまじ」は「やがて実にならずにはおかない」という意味。花名が省略されている場合は通常桜を意味するので、そうだとすると、この実はサクランボということになる。相聞歌の一首なので、恋の成就を願った歌と考えてよかろう。
 「家を出て仰ぎ見ると、向かいの岡に桜が目いっぱい咲いている。やがて実をつけてサクランボになるに相違ない」という歌である。

1894  霞立つ春の長日を恋ひ暮らし夜も更けゆくに妹に逢はぬかも
      (霞發 春永日 戀暮 夜深去 妹相鴨)
 結句「妹に逢はぬかも」(原文「妹相鴨」)の解釈一点にかかっている歌である。手元にある四書の訓を紹介すると、「佐々木本」、「岩波大系本」及び「中西本」は一様に「妹に逢へるかも」となっており、「伊藤本」のみ「妹も逢はぬかも」としている。前三書は主語を作者自身と解し、「伊藤本」は妹(彼女)を主語と解している。歌作及び読解の常道は主語が省略されている場合は作者を指す。なので、本歌の場合も「やっと彼女に逢えた」とするのが妥当である。が、不審なのは第四句の「夜も更けゆくに」である。夜が更けてから逢うというのは普通ではない。あらかじめ二人で約束しておいたのだろうか。ここではそう解しておこう。
 「霞がかかった春の一日のように(あらかじめ約束しておいた)夜更けまで、彼女に逢うのが待ち遠しくて恋い苦しかったが、夜更けになってやっと彼女に逢えたよ」という歌である。

1895  春さればまづさきくさの幸くあらば後にも逢はむな恋ひそ我妹
      (春去 先三枝 幸命在 後相 莫戀吾妹)
 「春されば」の「されば」はたびたび使われているように、「去れば」ではなく「来れば」という意味である。「まづさきくさの」の「さきくさ(原文「三枝」)」について「岩波大系本」は補注を設け、詳細に解説を施している。要するに、「諸説紛々として定まらない」としている。が、「幸(さき)くあらば」の「さき」を導くための序歌なのでさほどこだわる必要もなかろう。「な恋ひそ」は、例によって「な~そ」の禁止形。
 「春になって先ず咲くさきくさではないが、無事に過ごしていれば、後々逢えるかも知れません。そんなに恋い焦がれないでおくれ、私の彼女よ」という歌である。

1896  春さればしだり柳のとををにも妹は心に乗りにけるかも
      (春去 為垂柳 十緒 妹心 乗在鴨)
 「春されば」は前歌参照。「とををに」は、1595番歌に「秋萩の枝もとををに置く露の~」と詠われていたように「たわわに」という意味である。「乗りにけるかも」は「どっかと乗る」という意味。
 「春になるとしだれ柳の枝がたわわに垂れ下がるが、その枝のように彼女は私の心にどっかと乗るようになった」という歌である。
 左注に「右、柿本朝臣人麻呂歌集に出ている」とある。

 頭注に「鳥に寄せて」とある。
1897  春されば百舌鳥の草潜き見えずとも我れは見やらむ君があたりをば
      (春之在者 伯勞鳥之草具吉 雖不所見 吾者見将遣 君之當乎婆)
 「春されば」は「春になると」という意味。「草潜(ぐ)き」は「草に潜って」ということ。「見えず」を導く序歌。「君があたりをば」は「あの方のいる家の辺りを」という意味である。
 「春になるとモズは草むらに潜って姿が見えなくなるが、見えなくとも私はあの方のいる家の辺りを見てしまいます」という歌である。

1898  貌鳥の間なくしば鳴く春の野の草根の繁き恋もするかも
      (容鳥之 間無數鳴 春野之 草根乃繁 戀毛為鴨)
 貌鳥(かほとり)は1823番歌に出てきた際「カッコウとする見方がある。」と紹介した。が、カッコウは夏鳥。本歌は「鳴く春の野の」と詠われているので、あるいは異なるかもしれない。
 「貌鳥(かほとり)がしきりに鳴きしきる春の野は草も深々と生い茂っている。そんな激しい恋に私は陥っている」という歌である。

 頭注に「花に寄せて」とある。
1899  春されば卯の花ぐたし我が越えし妹が垣間は荒れにけるかも
      (春去者 宇乃花具多思 吾越之 妹我垣間者 荒来鴨)
 「春されば」は「春になると」という意味。「ぐたし」は「腐る」という意味。
 「春が来て卯の花が腐ってきた。私が越えた彼女の家の垣根の間はいまや荒れ果てている」という歌である。

1900  梅の花咲き散る園に我れ行かむ君が使を片待ちがてり
      (梅花 咲散苑尓 吾将去 君之使乎 片待香花光)
 結句の「片待ちがてり」の原文「片待香花光」は珍しい表現。「一方で心待ちしている」という意味である。「片待ちがてり」は1200番歌にも「我が舟は沖ゆな離り迎へ舟片待ちがてり浦ゆ漕ぎ逢はむ」とあり、原文は本歌と同じく「片待香花光」。
 「梅の花が咲いて散るあの美しいあの方の園に私は出かけようと思っている。それでいて、一方では、あの方のお誘いの使いがやってくるのを心待ちにしている」という歌である。

1901  藤波の咲く春の野に延ふ葛の下よし恋ひば久しくもあらむ
      (藤浪 咲春野尓 蔓葛 下夜之戀者 久雲在)
 「藤波の咲く春の野に」は「藤の花が波打つように咲き誇る春の野に」という意味で、明るい春の野を強調している。他方で「延(は)ふ葛の下よし」と恋の進展のはかばかしくない様を表現している。「葛の下よし」は強調の「し」。「久しくもあらむ」は「遙か遠いことだろう」という意味である。
 「藤の花が波打つように咲き誇る春の野に葛のつるのようにそろそろと地面を這っていくような、密かな恋ではその成就は遙か遠いことだろう」という歌である。

1902  春の野に霞たなびき咲く花のかくなるまでに逢はぬ君かも
      (春野尓 霞棚引 咲花乃 如是成二手尓 不逢君可母)
 「かくなるまでに」は「という季節になっても」という意味。
 「春の野に霞がたなびくようになり、花々が咲き乱れるようになっても逢って下さらないあなたなのね」という歌である。
           (2014年12月20日記、2018年8月25日記)
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