万葉集読解・・・131(1958~1973番歌)
1958 橘の林を植ゑむ霍公鳥常に冬まで棲みわたるがね
(橘之 林乎殖 霍公鳥 常尓冬及 住度金)
結句の「棲みわたるがね」の「がね」は、364番歌等多くの実例があるが、新しい所では1906番歌に「来つつ見るがね」と出てきた。要するに「かもしれないのだから」という意味である。
「橘の木をたくさん植えて林にしよう。ホトトギスがいつもやって来るように、さらに冬になっても住みつくかも知れないのだから」という歌である。
1958 橘の林を植ゑむ霍公鳥常に冬まで棲みわたるがね
(橘之 林乎殖 霍公鳥 常尓冬及 住度金)
結句の「棲みわたるがね」の「がね」は、364番歌等多くの実例があるが、新しい所では1906番歌に「来つつ見るがね」と出てきた。要するに「かもしれないのだから」という意味である。
「橘の木をたくさん植えて林にしよう。ホトトギスがいつもやって来るように、さらに冬になっても住みつくかも知れないのだから」という歌である。
1959 雨晴れの雲に副ひて霍公鳥春日を指してこゆ鳴き渡る
(雨へ之 雲尓副而 霍公鳥 指春日而 従此鳴度)
「雨晴れの雲に副(たぐ)ひて」は「雨上がりの雲の早い流れに沿って」という意味である。春日は「春の日差し」という普通名詞に使用される場合が少なくないが、本歌の場合は「春日を指して」となっているので地名。奈良市春日神社一帯を指す。「こゆ」は「ここから」という意味。
「雨上がりの雲の早い流れに沿ってホトトギスがここ我が家の上空を春日山の方面に向かって鳴きながら飛んでいく」という歌である。
(雨へ之 雲尓副而 霍公鳥 指春日而 従此鳴度)
「雨晴れの雲に副(たぐ)ひて」は「雨上がりの雲の早い流れに沿って」という意味である。春日は「春の日差し」という普通名詞に使用される場合が少なくないが、本歌の場合は「春日を指して」となっているので地名。奈良市春日神社一帯を指す。「こゆ」は「ここから」という意味。
「雨上がりの雲の早い流れに沿ってホトトギスがここ我が家の上空を春日山の方面に向かって鳴きながら飛んでいく」という歌である。
1960 物思ふと寝ねぬ朝明に霍公鳥鳴きてさ渡るすべなきまでに
(物念登 不宿旦開尓 霍公鳥 鳴而左度 為便無左右二)
「寝(い)ねぬ」は「寝られなかった」という、「すべなきまでに」は「切ないまでに」という意味。
「物思いにふけっていて、寝られなかった夜の明け方、ホトトギスが鳴きつつ飛んでいった。切なくてなすすべがない気持になるほど高い声で」という歌である。
(物念登 不宿旦開尓 霍公鳥 鳴而左度 為便無左右二)
「寝(い)ねぬ」は「寝られなかった」という、「すべなきまでに」は「切ないまでに」という意味。
「物思いにふけっていて、寝られなかった夜の明け方、ホトトギスが鳴きつつ飛んでいった。切なくてなすすべがない気持になるほど高い声で」という歌である。
1961 我が衣を君に着せよと霍公鳥我れをうながす袖に来居つつ
(吾衣 於君令服与登 霍公鳥 吾乎領 袖尓来居管)
第二句に「君に着せよと」とあるから、女性歌と考えるのが自然である。そう考えると、「我が衣(きぬ)を」の衣は羽織りだろうか。明け方の光景か昼寝の光景か不明だが、いずれにしろ、相手が布団もかけずにゴロリと横になって寝ている姿が目に浮かぶ。ホトトギスが室内に飛んで来て袖に止まってせっつくという歌意。だが、これをそのまま実景と取る必要はあるまい。一種のロマンチック表現である。
「ホトトギスが室内に飛んで来て袖にとまり、ゴロリと横になって寝ているあの方に、羽織りをかけてやりなさい、とせっつくのです」という歌である。
(吾衣 於君令服与登 霍公鳥 吾乎領 袖尓来居管)
第二句に「君に着せよと」とあるから、女性歌と考えるのが自然である。そう考えると、「我が衣(きぬ)を」の衣は羽織りだろうか。明け方の光景か昼寝の光景か不明だが、いずれにしろ、相手が布団もかけずにゴロリと横になって寝ている姿が目に浮かぶ。ホトトギスが室内に飛んで来て袖に止まってせっつくという歌意。だが、これをそのまま実景と取る必要はあるまい。一種のロマンチック表現である。
「ホトトギスが室内に飛んで来て袖にとまり、ゴロリと横になって寝ているあの方に、羽織りをかけてやりなさい、とせっつくのです」という歌である。
1962 本つ人霍公鳥をやめづらしく今か汝が来る恋ひつつ居れば
(本人 霍公鳥乎八 希将見 今哉汝来 戀乍居者)
「本(もと)つ人」は「昔馴染みのお方」という意味。ホトトギスは男の比喩表現。
「わあ、お珍しい。どこへ飛んでいったか分からないホトトギスさん。ちょうど今あんたがやって来ないかなと恋い焦がれていたところよ」という歌である。
(本人 霍公鳥乎八 希将見 今哉汝来 戀乍居者)
「本(もと)つ人」は「昔馴染みのお方」という意味。ホトトギスは男の比喩表現。
「わあ、お珍しい。どこへ飛んでいったか分からないホトトギスさん。ちょうど今あんたがやって来ないかなと恋い焦がれていたところよ」という歌である。
1963 かくばかり雨の降らくに霍公鳥卯の花山になほか鳴くらむ
(如是許 雨之零尓 霍公鳥 宇<乃>花山尓 猶香将鳴)
「雨の降らくに」は「雨が降っているのに」という意味。「なほか鳴くらむ」の「なほか」は「それでも」という意味である。
「こんなにも雨が降っているのに、ホトトギスよ、卯の花が咲きにおう山辺で、それでも鳴き立てているのだろうか」という歌である。
(如是許 雨之零尓 霍公鳥 宇<乃>花山尓 猶香将鳴)
「雨の降らくに」は「雨が降っているのに」という意味。「なほか鳴くらむ」の「なほか」は「それでも」という意味である。
「こんなにも雨が降っているのに、ホトトギスよ、卯の花が咲きにおう山辺で、それでも鳴き立てているのだろうか」という歌である。
頭注に「蝉を詠む」とある。
1964 黙もあらむ時も鳴かなむひぐらしの物思ふ時に鳴きつつもとな
(黙然毛将有 時母鳴奈武 日晩乃 物念時尓 鳴管本名)
「黙もあらむ」は原文に「黙然毛将有」とあるように「黙然もあらむ」である。つまり「ぼんやりしている」という意味。さらに倒置表現がされているので、「ひぐらし」を冒頭にもってくるとよい。「もとな」は618番歌にあったように、「心もとない」ないしは「しきりに」という意味である。
「ひぐらしよ、ぼんやりして何の考えごともしていない時にこそ鳴いておくれ。このように物思いにふけっている時、そんなにしきりに鳴き立てないでおくれ」という歌である。
1964 黙もあらむ時も鳴かなむひぐらしの物思ふ時に鳴きつつもとな
(黙然毛将有 時母鳴奈武 日晩乃 物念時尓 鳴管本名)
「黙もあらむ」は原文に「黙然毛将有」とあるように「黙然もあらむ」である。つまり「ぼんやりしている」という意味。さらに倒置表現がされているので、「ひぐらし」を冒頭にもってくるとよい。「もとな」は618番歌にあったように、「心もとない」ないしは「しきりに」という意味である。
「ひぐらしよ、ぼんやりして何の考えごともしていない時にこそ鳴いておくれ。このように物思いにふけっている時、そんなにしきりに鳴き立てないでおくれ」という歌である。
頭注に「榛(ハンノキ)を詠む」とある。
1965 思ふ子が衣摺らむににほひこそ島の榛原秋立たずとも
(思子之 衣将摺尓 々保比与 嶋之榛原 秋不立友)
榛原(はりはら)は、280番歌、1166番歌等で「真野の榛原」という形で詠み込まれている。1260番歌には「~島の榛原時にあらねども」とある。本歌にいう榛原が「真野の榛原」を指しているとすると、真野(神戸市内)に群生していた榛(ハンノキ)のことを言っていることになる。ハンノキは実等が染料として使われた。島の榛原は奈良県明日香村の島の庄の原という説もある。が、多くの歌に詠み込まれている有名な「真野の榛原」とするのが無難だろう。「衣(ころも)摺(す)らむに」は「衣を染めるのに」という意味。「にほひこそ」は「色づいてくれ」という意味。「~こそ」は「~してくれ」という意味である。
「あの彼女が衣を染めるのにいいように、島の榛原よ美しく色づいてほしい。まだ実になる秋ではないが」という歌である。
1965 思ふ子が衣摺らむににほひこそ島の榛原秋立たずとも
(思子之 衣将摺尓 々保比与 嶋之榛原 秋不立友)
榛原(はりはら)は、280番歌、1166番歌等で「真野の榛原」という形で詠み込まれている。1260番歌には「~島の榛原時にあらねども」とある。本歌にいう榛原が「真野の榛原」を指しているとすると、真野(神戸市内)に群生していた榛(ハンノキ)のことを言っていることになる。ハンノキは実等が染料として使われた。島の榛原は奈良県明日香村の島の庄の原という説もある。が、多くの歌に詠み込まれている有名な「真野の榛原」とするのが無難だろう。「衣(ころも)摺(す)らむに」は「衣を染めるのに」という意味。「にほひこそ」は「色づいてくれ」という意味。「~こそ」は「~してくれ」という意味である。
「あの彼女が衣を染めるのにいいように、島の榛原よ美しく色づいてほしい。まだ実になる秋ではないが」という歌である。
頭注に「花を詠む」とある。
1966 風に散る花橘を袖に受けて君がみ跡と偲ひつるかも
(風散 花橘(口+リ) 袖受而 為君御跡 思鶴鴨)
第四句「為君御跡」(原文)を「岩波大系本」は「君が御為と」とし、「諸訓がある。」としている。が、手元にある他の三書(「佐々木本」、「伊藤本」及び「中西本」)はすべて一様に「君が御跡と」と訓じている。「岩波大系本」のように訓ずると、必然的に「あなたに差し上げる為だと」という意味になる。これに対し後者だと「君の名残」という意味になる。いずれが的確だろう。読解の対象は「風に散る花橘」すなわち「袖に降りかかってきた花びら」である。「散った花びらを差し上げる」というのではいかにも奇妙である。加えて「為君御跡」を「君が御為と」と読むのは無理、少なくとも強引のそしりは免れまい。そこで、多数決ではないが、他の三書に従うのがよいだろう。
「風に散った花橘が袖に降りかかってきたのを目にして、あの方の名残のように思いました」という歌である。
ただし、「君が亡くなったのを思い出した」とも「君と共に見たあの日々を思い出した」とも色々とれる。一意に決めつけないで、読者各位の受け止め方に委ねるのがよかろう。
1966 風に散る花橘を袖に受けて君がみ跡と偲ひつるかも
(風散 花橘(口+リ) 袖受而 為君御跡 思鶴鴨)
第四句「為君御跡」(原文)を「岩波大系本」は「君が御為と」とし、「諸訓がある。」としている。が、手元にある他の三書(「佐々木本」、「伊藤本」及び「中西本」)はすべて一様に「君が御跡と」と訓じている。「岩波大系本」のように訓ずると、必然的に「あなたに差し上げる為だと」という意味になる。これに対し後者だと「君の名残」という意味になる。いずれが的確だろう。読解の対象は「風に散る花橘」すなわち「袖に降りかかってきた花びら」である。「散った花びらを差し上げる」というのではいかにも奇妙である。加えて「為君御跡」を「君が御為と」と読むのは無理、少なくとも強引のそしりは免れまい。そこで、多数決ではないが、他の三書に従うのがよいだろう。
「風に散った花橘が袖に降りかかってきたのを目にして、あの方の名残のように思いました」という歌である。
ただし、「君が亡くなったのを思い出した」とも「君と共に見たあの日々を思い出した」とも色々とれる。一意に決めつけないで、読者各位の受け止め方に委ねるのがよかろう。
1967 かぐはしき花橘を玉に貫き贈らむ妹はみつれてもあるか
(香細寸 花橘乎 玉貫 将送妹者 三礼而毛有香)
「花橘を」は「花橘の実を」と実を補って解するとすっきり歌意が通る。つまり、「薬玉にして贈ろう」が歌意である。意味不明なのが結句の「みつれてもあるか」。「みつれ」は原文に「三礼」とある。「みつれ」の用例は本歌のほかに719番歌しかない。「ますらをと思へる我れをかくばかりみつれにみつれ片思をせむ」という歌である。「みつれにみつれ」は「やつれ果てて」という意味で使われている。本歌は「贈らむ」でいったん切れる。
「かぐわしい橘の実を薬玉にして贈ってやろう。彼女はやつれ果てて病床についていることだろう」という歌である。
(香細寸 花橘乎 玉貫 将送妹者 三礼而毛有香)
「花橘を」は「花橘の実を」と実を補って解するとすっきり歌意が通る。つまり、「薬玉にして贈ろう」が歌意である。意味不明なのが結句の「みつれてもあるか」。「みつれ」は原文に「三礼」とある。「みつれ」の用例は本歌のほかに719番歌しかない。「ますらをと思へる我れをかくばかりみつれにみつれ片思をせむ」という歌である。「みつれにみつれ」は「やつれ果てて」という意味で使われている。本歌は「贈らむ」でいったん切れる。
「かぐわしい橘の実を薬玉にして贈ってやろう。彼女はやつれ果てて病床についていることだろう」という歌である。
1968 霍公鳥来鳴き響もす橘の花散る庭を見む人や誰れ
(霍公鳥 来鳴響 橘之 花散庭乎 将見人八孰)
二様にとれる歌である。結句の「見む人や誰れ」がキーワード。これを反語表現と取るか否かで分かれる。反語表現と解すると、「見に来る人は誰あろう」すなわち「あなた以外にないじゃありませんか」という歌になり、相聞歌(恋の歌)ということになる。反語表現ではないと解すると、「見に来る人は誰だろう」すなわち「誰か見に来てくれないかなあ」という歌になる。どっちとも決めがたいが、本歌は相聞歌ではなく雑歌に区分されているので、ここでは後者に立脚して読解しておこう。
「ホトトギスがやってきて激しく鳴き立て、橘の花が散る見事な風情。この美しい庭を誰か見に来てくれる人がいないかなあ」という歌である。
(霍公鳥 来鳴響 橘之 花散庭乎 将見人八孰)
二様にとれる歌である。結句の「見む人や誰れ」がキーワード。これを反語表現と取るか否かで分かれる。反語表現と解すると、「見に来る人は誰あろう」すなわち「あなた以外にないじゃありませんか」という歌になり、相聞歌(恋の歌)ということになる。反語表現ではないと解すると、「見に来る人は誰だろう」すなわち「誰か見に来てくれないかなあ」という歌になる。どっちとも決めがたいが、本歌は相聞歌ではなく雑歌に区分されているので、ここでは後者に立脚して読解しておこう。
「ホトトギスがやってきて激しく鳴き立て、橘の花が散る見事な風情。この美しい庭を誰か見に来てくれる人がいないかなあ」という歌である。
1969 我が宿の花橘は散りにけり悔しき時に逢へる君かも
(吾屋前之 花橘者 落尓家里 悔時尓 相在君鴨)
「我が宿の」は「我が家の庭の」という意味。「悔(くや)しき時に」は「残念にも」という意味。
「我が家の庭の花橘は散ってしまいました。あなたに会うのがもう少し早かったらなあ」という歌である。
(吾屋前之 花橘者 落尓家里 悔時尓 相在君鴨)
「我が宿の」は「我が家の庭の」という意味。「悔(くや)しき時に」は「残念にも」という意味。
「我が家の庭の花橘は散ってしまいました。あなたに会うのがもう少し早かったらなあ」という歌である。
1970 見わたせば向ひの野辺のなでしこの散らまく惜しも雨な降りそね
(見渡者 向野邊乃 石竹之 落巻惜毛 雨莫零行年)
結句は「な~そ」の禁止形。「降らないでおくれ」という意味。
「見わたすと向こうの野にナデシコが咲いている。散ってしまうのが惜しいから雨よ降らないでおくれ」という歌である。
(見渡者 向野邊乃 石竹之 落巻惜毛 雨莫零行年)
結句は「な~そ」の禁止形。「降らないでおくれ」という意味。
「見わたすと向こうの野にナデシコが咲いている。散ってしまうのが惜しいから雨よ降らないでおくれ」という歌である。
1971 雨間明けて国見もせむを故郷の花橘は散りにけむかも
(雨間開而 國見毛将為乎 故郷之 花橘者 散家<武>可聞)
「雨間(あまま)明けて」は「雨の晴れ間に」という意味。第二句でいったん切れる。
「雨の晴れ間に国土を見てみたい。故郷の花橘は散ってしまっただろうか」という歌である。
(雨間開而 國見毛将為乎 故郷之 花橘者 散家<武>可聞)
「雨間(あまま)明けて」は「雨の晴れ間に」という意味。第二句でいったん切れる。
「雨の晴れ間に国土を見てみたい。故郷の花橘は散ってしまっただろうか」という歌である。
1972 野辺見ればなでしこの花咲きにけり我が待つ秋は近づくらしも
(野邊見者 瞿麦之花 咲家里 吾待秋者 近就良思母)
読解を要さない平明歌。
「野にはナデシコが一面に咲いている。あの待ち遠しい秋が近づいてきたようだ」という歌である。
(野邊見者 瞿麦之花 咲家里 吾待秋者 近就良思母)
読解を要さない平明歌。
「野にはナデシコが一面に咲いている。あの待ち遠しい秋が近づいてきたようだ」という歌である。
1973 我妹子に楝の花は散り過ぎず今咲けるごとありこせぬかも
(吾妹子尓 相市乃花波 落不過 今咲有如 有与奴香聞)
「我妹子に」は逢うを楝(あふち)にかけた語呂合わせ。楝はセンダンの古名で、落葉高木。「散り過ぎず」は「散り失せないで」という、「ありこせぬかも」は「このままでいてほしい」という意味である。
「彼女に逢う、その楝(あふち)の花よ。散り失せないで咲いた今のままでいてほしい」という歌である。
(2015年1月10日記、2018年9月3日記)
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(吾妹子尓 相市乃花波 落不過 今咲有如 有与奴香聞)
「我妹子に」は逢うを楝(あふち)にかけた語呂合わせ。楝はセンダンの古名で、落葉高木。「散り過ぎず」は「散り失せないで」という、「ありこせぬかも」は「このままでいてほしい」という意味である。
「彼女に逢う、その楝(あふち)の花よ。散り失せないで咲いた今のままでいてほしい」という歌である。
(2015年1月10日記、2018年9月3日記)